Eu e Você~想いあふれて~

 
 どこの街にも正体不明の謎深い人はいる。いわゆる、“ヘンな人”だ。ヘンな人は単に個性的な人である場合もあるし、何らかの精神疾患を抱えている場合もある。後者で重篤な問題を抱えているにもかかわらず、見過ごされている場合には福祉につなぐなどの手助けが必要だが、たまに見かける程度の“ヘンな人”に偏執的な関心をもつ人は多くない。たいていは関わりを避け、適度な距離を保って暮らす。それでも、彼らは前衛的な画家が巨大なカンバスにぶちまけるビビッドな絵の具のように突然差し色として街角に姿をあらわすのだ。

 そういう意味では彼もまた差し色で、当初はよくいる“ヘンな人”のひとりだと思っていた。

 彼の存在に気づいたのは、12月の寒い朝だった。吐く息は白く、足もとから忍び寄る寒さに思わず早足になる。散歩をすませて自宅マンションに戻ると、見慣れないブルーの乗用車がとまっていた。暖をとるためなのか、アイドリング状態で、マンションのエントランスからほんの少しずれた位置に停車していた。正面玄関は目と鼻の先で、住人としては、知らない人の視線を感じながらオートロックを開錠するのは気持ちがいいものではない。さりげなく一瞥すると、60代にも70代にも見える彼は朗らかな笑みをうかべ、人待ち顔で運転席に座っていた。

 一度目は誰かを迎えに来たのだろうと気にとめなかった。しかし、乗用車は週に二度、三度、と高い頻度で姿をあらわすようになった。1時間以上停車し、しばらくすると誰を乗せるわけでもなく走り去っていく。最初は、住人の父親で多忙な子供を会社まで送迎しているのだろうか、あるいは路地奥の一軒家に孫がいて学校まで送っていっているのだろうか、と想像をめぐらした。けれど、それにしては停車時間が長すぎるし、姿をみせる時間も早朝や夕方とばらつきがあった。

 マンション前に長時間停車されるのも不安で、警察に通報して対応を頼んだこともあった。そのたびに警官がやってきて車両を移動するよう促したが、また幾日かすると彼は姿をあらわし、朗らかな笑みをうかべて正面を見据えていた。

 
 ある日、彼の姿を目にしても何も感じなくなっている自分に気づいた。別に実害があるわけではないし、放っておいてもいいのではないか。空き巣の下見にしては念入りすぎるし、ストーカーや性犯罪者にしては温和で、マンションに立ち入ることはおろか、車から表に出る様子すらない。しかし、いつまでも街角の差し色として見過ごすわけにもいかなかった。いまは朗らかでも、突然、凶暴化する可能性もあるのだ。迷ったすえ、最後のつもりで警察に通報することにした。

 最後の通報時には、それまでとふたつ違う点があった。ひとつは、駆けつけた警官が車両の移動を促すだけでなく、なぜいつもマンション前に停車しているのか微にいり細をうがって尋問したこと。もうひとつは、私が道路側の窓を細く開けて、彼と警官のやりとりを聞けるようにしたことだ。

 彼は警官の質問に対し、昭和ひとケタの誕生日を告げた。なぜいつも停車しているのかという質問には「姉にカネを持ってきた」と答え、「姉は2階に住んでる」と言葉をついだ。2階には彼の姉に相当する年齢の女性は住んでいない。そもそも、うちのマンションに高齢者は住んでいない。それでも、「いつもここで待ってると、姉が出てくる」といって彼は譲らない。

 嘘をついているようには聞こえないが、会話がちぐはぐでかみ合っていなかった。彼の時系列は複雑に入り乱れ、過去完了の出来事があたかも現在進行形の出来事のように感じられるだけなのだ。彼は、“認知”に問題を抱える老人だった。

 でも、もし彼の言っていることが事実で、単に時間軸が過去になっているだけだとしたらどうだろう。漏れ聞こえてくる彼と警官の話を聞きながら、ふと思った。このマンションが建つ何十年も前には2階建てのアパートが建っていて、彼のお姉さんが実際に住んでいたのだとしたら――。

   ◇ ◇ ◇

 ――やっぱり、明かりがついている。

 シゲオはトラックの運転席から、マンションを見上げた。銭湯にでも行っているのかもしれない。さすがに銭湯に行くぐらいのカネは残っていたのだろう、と彼は心得た様子でうなずいた。

「カネを貸してほしい」と、姉貴から電話がかかってきたのは今日の昼休みだった。職場に電話がかかってくると、近くの事務員に話を聞かれていそうで気が気じゃないが、姉貴も俺も家に電話を引くようなカネはない。同僚の飛田なんざ、事務所の電話をこっそり拝借し、青森の実家に遠距離電話をかけている。それに比べたら、俺はまだかわいいもんだ。「山根くん、お姉さんからお電話よ」と事務員に呼び出されるのはばつが悪いが、私用電話じたいは別にめずらしくなかった。

 俺の親父とお袋は3月10日の東京大空襲で死んだ。人ごみと火の海のなか、親父とお袋が先導するように前を走り、姉貴と俺がつづいたが、曲がり角まで来たところで親父とお袋を見失った。それが親父とお袋を見た最後だった。姉貴と俺は風上の小学校まで逃げ、どうにか命拾いした。つぎの日の朝、表に出てみると、あたりは一面焼け野原で、瓦礫と化した家々はくすぶりつづけ、そこらじゅうに黒こげの死体が転がっていた。生き残ったやつらは途方にくれた顔つきで焼け跡に立ちつくし、“我が家”の残骸からまだ使えそうなものを拾い集めていた。

 俺はあちこちの避難場所を駆けずりまわって親父とお袋を探した。似た人を見たと聞けば、遠く離れた町でも駆けつけ、その道中もそうでないよう願いながら黒こげの死体を確認してまわった。だが、ついぞ親父とお袋は見つからなかった。昭和20年3月10日付で死亡認定が下り、墓石にはふたりの名前とその日付が刻まれることとなった。

 親父とお袋が死んでから、姉貴と俺は手と手を取り合って生きてきた。だれにも話す気になれない過去だ。戦災孤児と呼ばれるのも、蔑まれるのも、憐れまれるのも嫌だった。
 引き取られた叔父夫婦には厄介がられ、遠慮しいしい飯を食ったせいでやせ細り、背もあまり伸びなかった。姉貴と俺は叔父のところで畑仕事を手伝っていたが、奴隷のような扱いと折檻に耐えかねて東京に逃げ戻った。何の当てもなかったが、もう我慢の限界だった。ほどなく姉貴は山の手の印刷工場に職を見つけ、俺は下町の工場で溶接の仕事についた。

 女の姉貴は給料が悪く、俺以上にカツカツの暮らしだ。金のいい仕事を求めて職安にいったら、嫌味な男に下から上まで値踏みするように見られたあげく、「これ以上稼ぎたかったら、特飲街にでも行くことだね」と追い返されたと唇を噛みしめていた。「そんな真似、俺がさせない」となだめてやったのが悪かったのか、以来、ことあるごとに頼られるようになった。

 高台には大手の出版社のほか、戸建てやアパートが立ちならび、坂下には印刷工場や戸建てやアパートが立ちならんでいる。どっちも似たようなもんだが、高台と坂下の違いは建物の大きさだ。高台にはわりかし大きいものが、坂下にはわりかし小さいものが建つ。どこの町もこの景色は変わらない。
 姉貴の住むアパートは職場が借り上げたもので、なぜか工場から少し離れた高台に建っている。工場の社長とアパートの大家が知り合いだからだというが、姉貴にいわせれば、その大家とは社長が昔入れあげていた芸者らしい。芸者をやめても食うに困らないようにアパートを建ててやったって話だ。大家は暇つぶしに三味線を教えていて、たまにアパートと隣り合わせに建った2階屋から三味線をかき鳴らす音が聞こえてくる。

 今日も三味線の音を聞きながら待つことになりそうだ、と俺は思った。姉貴は出てくるまでに時間がかかる。アパートの前に着くとクラクションを鳴らして合図をするが、10分待つのは常だ。トラックのドアには勤め先の工場の名前が入っている。手持ちぶさたの俺は、運転席からその黒文字を指先でなぞった。

 しばらくすると、姉貴が申し訳なさそうに両手をすり合わせながら出てきた。俺は額に手をあてて敬礼し、トラックからさっと下りた。
「ごめん、シゲオ。待たせちゃって」
 いつものことだろ、と俺は内心苦笑した。
「これ」
 俺がカネの入った茶封筒を渡すと、姉貴はそれを押しいただいた。
「いつもごめんね。給料が入ったら、すぐ返すから」
 そう伏し目がちにいう姉貴の声色から、またあの男に貢いでいるんだろうと察した。特攻崩れから、盗品も扱うようなガラクタ売りになったあの男。無頼気取りでいけ好かないやつだ。でも、それを姉にいうと、決まって顔をしかめる。別れるよう忠告したときは、ふた月も口を利いてくれなかった。以来、やつのことは禁句だ。

「変わりない?」
「ないもなにも、先々週も会ったばかりじゃない」
 そうだ。あの野郎が博打でもうけたといって、寿司を馳走してくれたんだった。嫌なことを思い出しちまった。頭では、寿司桶をひっくり返してやろうと思っていたが、いざ姉貴の部屋で桶いっぱいに詰まった寿司を前にすると、ろくなものを食ってない俺は拒めなかった。ひとつつまんではまたひとつと、やつを睨み睨み、口に押し込んでいった。

 姉貴も俺もうつむき、黙り込んだ。数秒の沈黙。オート三輪が向こうから走ってくるのが見えた。潮時だ。
「じゃあ、また」
 俺は軽く手をあげ、小走りにトラックに乗り込んだ。バックミラーに姉貴の姿が映る。いつも名残惜しそうな、心細そうな顔をしているが、トラックが曲がり角にさしかかると、やれやれという顔つきでアパートに入り、たたきで足をぶらぶら交互に振って下駄を脱ぐのだ。何に対するやれやれなのだろう。俺らの境遇だろうか、それとも自分の人生だろうか。ずっと気になっているが、いまだ聞けずにいた。

   ◇ ◇ ◇

 “もはや戦後ではない”だと。笑わせてくれる。貧乏暮らしなのは相変わらずだ。俺だけでなく、工場のやつらも、姉貴もみんなカツカツだ。でも、ボーナスが入ったところをみると、工場の景気は悪くないらしい。俺は忍び笑いをもらした。今日は姉貴にうまいもんをおごってやろう。天ぷらかとんかつがいいな。

 姉貴のアパートの前で、クラクションをひとつ鳴らして合図を送る。姉貴はいるはずだ。部屋の電気もついてる。なのに、出てこない。どこに行ったんだ。

――窓をたたく音に振り返ると、若い警官が立っていた。「ちょっと、いいですか?」とくぐもった声とともに、警官は窓を開けるようジェスチャーで示した。ここはおとなしく従ったほうがよさそうだ。

「免許証を見せてもらえますか?」

 窓を開けるやいなや、警官は疑り深い目つきで俺の顔をのぞきこんだ。ぶしつけなやつだ。ポリ公は作業着姿の若い男を見ちゃ疑ってかかる。俺はじろりとにらみ返した。

 しかし、警官の目には柔和な顔つきの老人が映っていた。ニコニコして免許証を探すそぶりも見せない。警官は眉をひそめた。二、三度、提示を求めて、ようやく老人は財布から免許証を取り出した。
 警官は免許証を確認し、返却しながら質した。「ここで何してるんですか?」
「姉にカネを持ってきたんです。ひとりで暮らしてるから」

 そうだ、俺は姉貴にカネを持ってきたんだ。

「お姉さん? 何階に住んでるの?」
「2階。2階の右端」

 そういって、俺はアパートを見上げた。2階? 2階にしてはずいぶん高く感じる。2階建てのアパートだったよな。

「2階の右端ですね?」というと、警官はエントランスの風よけ室に入った。銀盤の数字を押して部屋番号を入力し、“呼出”ボタンに指をのせる。ややあって、相手の声が聞こえた。
「はい」
「夜分にすみません。警察の者です。あのそちらに、山根さんとおっしゃる方はお住まいですか?」
「いえ、うちは松永ですけど」と女が当惑気味に応じた。
「失礼しました。では、このマンションに……といっても、ほかの住人の方のことはわからないかもしれませんけど、高齢の女性ってお住まいですかね? おひとりで暮らしてるような」
「どうでしょう。ご高齢の方はお見かけしないですね。それ以上のことはちょっとわかりかねます」
「はあ、そうですか。ご協力ありがとうございました」
 警官は小首をかしげ、エントランスから表に出た。相変わらず老人は正面を見つめて微笑んでいた。警官は腰をかがめ、運転席の老人に話しかけた。
「お姉さん、住んでないって」

 姉貴? 姉貴がどうしたって? 姉貴は結婚して、練馬に住んでるんだ。

「姉は練馬に住んでる」
「へ? お姉さん、ここに住んでるんじゃなかったの? 練馬?」

 この若造はなにいってるんだ。姉貴は子どもも大きくなって、だんなも死んで、いまは……あれ、あねきはどうしたんだろう。あねきはどこにいったんだ。

「しんいち、おかあさんはどこにいった?」

 警官は眉をひそめ、やがてことの次第を理解したようにため息をついた。認知症、か。「お姉さん、ここに住んでないみたいですよ。さっき聞いた、ご自宅の番号に電話しましょうか? おうちの人に迎えにきてもらったほうがいいんじゃないですか?」

 おうちのひとってだれのことだ。かぞくはあねきしかいない……ああ、うちにかえったら、あねきがまってるのか。

「大丈夫? ひとりで帰れますか?」
 老人は朗らかに笑みをうかべ、こくりとうなずいた。
「あのね、近隣の方から何度か通報が入ってるので、もうここに車止めないでくださいね」

 ここにとらっくをとめられないんじゃしょうがないな。かどにとめて、あねきにあるいてきてもらうしか……あれ、あねきはどこにいったんだ? あねき、なんでそうしきのしゃしんになってるんだ?

「もう一度言いますけど、お姉さん、ここに住んでないみたいですからね。気をつけて帰ってくださいね」

 ああ、そうか。うちでまってるのか。かえりに、いなりずしでもかってってやろう。

 
 警官は走り去るブルーの乗用車を見送りながら、思ったより運転がうまいな、と妙なところで感心していた。でも、ひとりで帰らせて大丈夫だっただろうか。まあ、いい。オレの任務は終了だ。

 警官は自転車にまたがり、無線機をとって連絡を入れた。そして、もう一度マンションを見上げると、肩をすくめてペダルをこぎはじめたのだった。
 

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駆け落ちはしたけれど――ミサト、35歳の場合――

連作前編「駆け落ちはしたけれど――ミサト、34歳の場合――

 
 愛している、束縛されているわけでもない。でも、逃れたくてしょうがない――。

    ◇ ◇ ◇
 
「――ごめん、そろそろ起きるわ」

 トモヤはベッドから抜けだし、床に脱ぎ捨てたボクサーブリーフを拾い上げた。いったんベッドサイドに腰かけ、両足を一気に通してからすっくと立ち上がる。すぐシャワーを浴びるのに、下着をはかずに部屋を出るのは落ち着かないらしい。引き締まったいい体。ミサトは、ドアをすり抜けていくその後ろ姿を惚れ惚れと見送った。
 私もそろそろ起きないと、とミサトは上半身を起こして伸びをする。トモヤと同じく床に脱ぎ捨てたブラキャミソールとショートパンツを身につけ、キッチンに向かった。

 トモヤと一緒に暮らしはじめて2ヶ月が過ぎた。トモヤの父親が“東京離脱”を宣言し、母親ともども房総の別荘に移り住んだのだ。もともとデザイン関係の事業を営んでいた彼の父親は、ふだんは房総に暮らし、必要なときだけ東京に出てくるライフスタイルに切り替えた。その別荘も、もとをたどれば、トモヤの亡くなった祖父母の家で、しばらく空き家になっていたという。そこでチャンス到来とばかりに、トモヤはミサトに連絡をよこしたのだった。

 たった1日の“駆け落ち”から逃げ出したあと、ミサトは何事もなかったかのように旦那との日常に戻った。平日は旦那より10分だけ早起きし、お弁当をつくるかたわら朝食の支度をし、儀礼的に何度かキスをかわして送り出し、洗濯物がたまっているときは洗濯を、埃が気になるときは掃除をする。食材や日用品が不足していれば、夕方までに近所のスーパーに行くか、ネットスーパーなどで買いたす。水まわりの掃除と食器洗いは旦那の仕事だ。フリーでやっている仕事のために、パソコンの前に座るのは週に2度ほど。“礼儀正しい”旦那との夫婦生活と同じ回数だった。

 単調で安穏とした日々は、まるで健康な人の心電図のように規則正しい起伏を描いて流れていく。その規則正しい起伏はときに安堵を、ときに虚無をもたらす。幸福ゆえの物憂さにうんざりし、自由と孤独がもたらす躍動感に思いをはせる。それも旦那が帰ってくるころには鳴りをひそめ、また旦那が出勤してしばらくたつと沸々とこみ上げてくるのだった。

 情熱と刺激がほしい――。

 かつてはすぐそばにあった情熱と刺激が蜃気楼のようにかすんで見える。音楽や映画から昔の出来事を思い出し、過ぎ去りしものたちに懐古の涙を流すこともなくなった。ミサトはただただ情熱に飢えていた。

 
 そんなある日、ミサトのもとにトモヤからLINEが入った。

“いろいろあって、東京に帰ってきました。よかったら、近々お茶しない?”

 するならする、しないならしないで返事をすればいい。そのどちらも難しいなら、ブロックすればいい。そう、ミサトにはわかっていた。このメッセージに返信したら、きっとまた抗えなくなる。安穏とした日常から逃げ出す誘惑に。

 1週間、ミサトは誘惑に抗いつづけた。そして、1週間と5時間30分後、ミサトは誘惑に負けた。

“返事、遅くなってごめん。そうだね。近々お茶しましょう。”

 トモヤが指定したのは、新宿にある喫茶店“ルノアール”だった。世田谷ののどかな住宅街で育った彼にとって、新宿はアウェーだった。「新宿はごちゃごちゃしていて好きじゃない」と渋谷を好んだ。ミサトにとっては、新宿も渋谷も猥雑な雰囲気に変わりはないように思えたが、いつもトモヤは勝手知ったる渋谷で会うことを望んだ。しかし、この日にかぎってトモヤが指定したのは新宿のルノアール。忘れもしない。ミサトとトモヤが初めて出会った場所だった。

 あの日と同じ席にトモヤは腰かけていた。ビジネス客が大半を占めるなか、ひとりだけオレンジ色のTシャツを着てオレンジジュースを飲んでいた高校生はもういない。入り口の人の気配に気づいたトモヤは、スマホから視線を上げ、ミサトに軽く手を振ってみせた。

「見違えちゃった。今日はオレンジ色のTシャツじゃないんだ」
「そうそう。あれから5年たって、オレも社会人だからね。スーツ着てんの。まだ見たことなかったっけ?」というと、トモヤは薄笑いをうかべ、上目遣いにミサトを見据えた。「なにも言わないで東京に帰っちゃうんだもん。びっくりだよ」 
「駅前で出張中の旦那に会っちゃったし、帰らないわけにいかなかったんだよ」
「妻の駆け落ち先に旦那が出張って、超ドラマチックだ」
 感動気味に語るトモヤ、相変わらずピントがずれているとミサトは思った。駆け落ちから戻ってLINEで報告したときも、彼は同じように感動していたのだった。

「ということで、いったん東京に戻ることにしたの。ごめんね」
「オレ、これでもちょっと傷ついたんだけどね」とミサトを一瞥すると、トモヤはガムシロップを2つ入れたアイス・ラテをすすった。「あれからどうした?」
「元の生活に戻っただけ。旦那の世話をして、ちょっと仕事をして、単調な日々を過ごしてる。長旅に出ようかと思って、スマホで長野の奈良井の情報を調べてたら、旦那が背後からのぞき込んで、『今度の休み、一緒に行く?』って聞いてきて隠遁計画はまた立ち消えになった」
「思うんだけど、なんでいつも長野に逃げようとするの?」
「なんでだろ。なんか、“それっぽい”でしょ」
 納得したのかどうか、トモヤは両眉をあげて口をとがらせ、小刻みにうなずいた。 
「そういうトモヤはあれからどうしたの?」とミサトは水を向けた。就職した会社もあの田舎町も会わなくて、東京に戻ってきたところまでは聞いていた。
「いまは不動産会社に勤めてる。高級物件ばっか扱ってるところだから、ちょっと目が肥えた」と彼はちょっと誇らしげに語った。「そうそう、いまオレ、実家でひとり暮らしって言ったっけ?」
「え? 聞いてないよ」
「父親と母親がね、房総に引っ越しちゃったんだよね。で、3LDKにひとり暮らしってわけ」
「へえ、そうなんだ」。ミサトは一度だけ遊びに行ったことのあるトモヤの実家を思い浮かべた。等々力渓谷に近い、薄茶色のマンションだったはずだ。
「さてさて、ミサトさん。ここからが今日の本題です」というと、トモヤは大袈裟に居ずまいを正した。「駆け落ちは失敗に終わりました。そこで、仕切なおしとして、オレと一緒に住みませんか?」
 これにはミサト自身驚いたが、何のためらいもなく、トモヤの誘いに応じていたのだった。

 
“しばらく旅に出ます。また落ち着いたら連絡します。”

 そんな置き手紙をし、ミサトは必要最低限のものだけをスーツケースに詰め込んでトモヤの家に移り住んだ。

 ミサトがもっとも心配したのは、トモヤの世話係になることだったが、意外や意外、これは杞憂に終わった。ずっと親元で暮らしてきた彼は家事が苦手だろうとミサトは睨んでいたが、料理以外のことはひととおりできるようだった。交友関係が広く、仕事上のつきあいもあり、トモヤが家で夕食をとるのは週に4日か5日。これはミサトにとってうれしい誤算だった。“週に4日は一緒に夕食をとる”というルールをもうけただけで、あとは自由の身。夕食の支度のために仕事を中断することも減り、こなせる仕事の量も増え、友達と食事に出かける回数も微増した。
 旦那と暮らしていたときは、所用のほとんどを日中にすませていた。毎晩夕食に間に合うように帰宅し、休日も妻と過ごしたがる彼をないがしろにするのは後ろめたかったからだ。留守にしても嫌な顔はしなかったが、ミサトにとってその決まりきった生活は知らず知らずのうちに重荷になっていた。

 トモヤに飲み会の予定が入っている日は、ミサトはお弁当を持たせて栄養バランスに気をつかった。ミサトが卵焼きをハート型に切って入れると、「やめろよ、恥ずかしい」とトモヤは抵抗してみせたが、まんざら嫌そうでもなかった。また、トモヤは“紳士”と“野獣”の演じ分けが上手だった。ミサトは、慮るばかりの紳士ではなく、やさしい野獣に飢えていたことに気づかされた。

 ミサトの誕生日の夜、トモヤは駅前のケーキ店でショートケーキとチョコレートケーキを買って帰ってきた。相変わらず好みが子供だと、ミサトはくすっと笑った。
「そのケーキは、明日のアフターパーティ用」。トモヤはそういって、ミサトからケーキの箱を取り上げ、うやうやしく捧げ持って冷蔵庫にしまった。ゆるめていたネクタイを締め直し、ミサトの手をとる。いつになく真剣な面持ちだ。

「さて、先ほど電話でも告知しましたように、これからビッグイベントが待ち受けています」と、彼は自分の言葉が金言であるかのように深くうなずいた。「オレが子供のころから行ってるピザ屋にですね、ミサトさんをお連れしなければならないんですよ。石窯のピザが絶品の店」
「さあ、支度をつづけて。30分後に出るから」。そう矢継ぎ早にいうと、トモヤは寝室のクローゼットに行くようせき立てた。

 中秋の月が雲間から顔を出し、夜風が心地よいオープンテラスで飲むサングリアは格別だった。トモヤのいうとおり、その店の石窯ピザは絶品で、金曜の夜ということもあって大勢の客でにぎわっていた。
「――ああ、もう35だよ。どうしよう。何者でもないまま30代半ば。そして、たぶん、あっという間に40だ」。ミサトは乾杯の後、グラスを手にしたまま絶望的に嘆いた。
「ええー、オトナの女って感じで、カッコいいじゃん」
「ずいぶん前に『いくつまで平気なの?』って聞いたら、『ケースバイケースだけど、40はさすがにきついかなあ。母親の年じゃん。対象として見られない』って言ってたでしょ。私、それにまた1歩近づいたんだよ?」
「あのころは18のガキで青かったのさ。オレも23になったしね」
 めずらしくトモヤが国際ニュースを食い入るように見ていると思ったら、フランス大統領選の話だったことがあった。“大統領候補の奥さん。国語の元担当教師で、24歳上で、知り合った当時から旦那さんがいたのか。オレもまだまだだな。”と真剣なまなざしをテレビに向けていた。その様子をはたから見ていたミサトは、何に対して挑んでるんだろうと苦笑した。
 食べかけのピザの皿に、緑色の葉が1枚、ひらひらと舞い落ちた。落葉には気の早いケヤキの葉だった。
「バジルと違って食べられないよな」と、サングリアとグラッパでほろ酔いになったトモヤが漫然と皿を見つめた。
「おなかこわすでしょうね」
「じゃあ、願い事でもする?」
「流れ星とかケーキのろうそくみたいに?」
「そうそう、そんな感じで」
 トモヤは緑色のケヤキの葉を指先でつまむと、皿の中央に置き、ミサトに目配せをした。ふたり同時に目をつぶる。きっと、同じことを願ってる、とトモヤは思った。その考えに間違いはなかった。ただ、ミサトの願い事はちょっとだけ欲深かった。

    ◇ ◇ ◇
 
 “オレがずっと通ってる美容室、紹介するよ”とトモヤに言われても、ミサトはなかなか行く気になれなかった。トモヤの独創的にして奇をてらっていない、立体的な髪型を創り出している美容師がどういう人か知りたい気持ちもあったが、行きつけの美容室と病院を変えるにはロングヘアをショートヘアにするぐらいの勇気がいる。

 結局、毛先の傷みが無視できないレベルになったある日、ミサトは前に住んでいた街の行きつけの美容室に赴くことにした。電車を乗り継ぎ、見慣れた街に降り立ったときには胸を締めつけられた。たったふた月留守にしていただけなのに、知らない街に来たようだった。駅の改札からメインストリートの商店街を抜けて、なじみの美容室の前に到着した。担当の美容師はミサトが旦那のもとを去ったことを知らない。

「あそこのパン屋の新作、とても美味しかったですよ」
「そういえば、この前、お客さんに聞いたんですけど……」

 いつもどおり、当たり障りのない世間話をしているうちにカットは終わり、ミサトは会計をすませて表通りに出た。旦那も同じ美容室に通っている。彼のカットの頻度を考えたら、自分が去ったあとに一度は来ているはずだ。だとしても、そんなプライベートなことを誰彼かまわず話すタイプではないよな、とミサトは思い直した。

 そのまま帰るのも忍びなく、商店街を歩いていたとき、小さな食材店の前を通りかかった。近くに大手のスーパーがあって、値段もとりたてて安いわけでもないのに、なぜかいつも客足が途絶えない不思議な店だ。その店先に、ちくわぶが目玉商品として並んでいた。奥の冷蔵ケースをのぞくと、手作りの絹揚げが冷気のなかに佇んでいた。ちくわぶと絹揚げの煮物は旦那の好物だ。そのとき、ミサトの脳裏にある考えが浮かんだ。旦那に煮物を作っていこうか――。かえって残酷だろうか。でも、作ってあげたいというエゴに軍配があがった。

 ゆるやかな坂道を下っていくと、道なりに見覚えのあるマンションが姿を現した。見覚えも何も、もう何年も住んでいたところだ。住んでいたところ? いや、ふた月あまり留守にしていただけともいえる。

 3階の角が旦那とミサトの部屋だった。オートロックを解除してエレベーターに乗り、無駄に明るい内廊下を少し歩いて部屋の前にたどり着いた。鍵を変えられていたらどうしようとミサトは心臓が早鐘を打つのを感じたが、持っていた鍵でドアはすんなり開いた。

 洗った洗濯物は几帳面にたたまれ、リビングのソファの片側に積まれていた。仕事から帰ったらクローゼットにしまうつもりなのだろう。「言ってくれたらやるよ」と言って、一度もやったことがなかった洗濯物。やればできるんだ、自分に甘えてまかせきりだったのではと腹立たしくもあった半面、「言われなくても、週末にたまってたらやって」とでも言えばよかったかな、とミサトは思った。

 ひとり分の食器と、最小限の調理器具もきちんと洗われ、食器かごに伏せてふきんがかけられていた。そこには彼ひとりの暮らしの営みがあった。

 まな板を調理台に渡し、シンク下の収納扉を開けて包丁を取り出す。やっぱり、また逆向きだとミサトは思った。「刃を右側に向けて差したほうが使いやすい」とミサトが言っても、「刃が右側だと、取り出したときに刃が外側を向くことになるから危ない」と旦那はゆずらなかった。包丁を取り出して、柄を半回転してから食材を切りはじめる。かつおのだしパックと干ししいたけでだしをとり、薄めのそばつゆのような味加減にする。そこに、乱切りにしたにんじん、絹揚げ、ちくわぶを入れて煮込むだけだ。煮込んだら火をとめて味をなじませる。旦那が帰ってくるころには、食材の芯まで味が染みているだろう。

 ミサトは引き出しからメモ帳を取り出し、ペンを握った。旦那の名前を頭に書いたが、先がつづかない。

“音信不通でごめんなさい。また連絡します。”
“ごめんね。落ち着いたら連絡します。”
“あなたの好きな煮物をつくりました。よかったら、食べてね。”

 どれも嘘くさい、とミサトは思った。“近いうちに戻ります”という一文も脳裏をよぎったが、突然うちを飛び出して、思いつきで立ち寄って煮物を作り置きして、そんなことを書けるはずもない。そもそも自分に戻る意思があるのか、戻る資格があるのかもわからなかった。白紙のメモとペンを引き出しに戻し、ミサトは“旧宅”をあとにした。

 
――会社帰り、駅前のスーパーに立ち寄った旦那はかごを手に取った。今夜は何をつくろう。そもそも食べたいものが浮かばない。ネギと油揚げを卵で閉じて衣笠丼にでもしようか。それなら労力も最小限ですむ。

 会社帰りに買い物をして帰る生活にも慣れつつあった。前は会社から自宅に直帰するのが常で、リビングに入ると、キッチンに立って食事の支度をしているミサトの姿が目に飛び込んできた。ささやかで、空気のように当たり前で、かけがえのない光景だった。部屋着に着替えて食卓につくと、程なく料理が並べられる。絶妙なタイミングだと関心していたが、それは単にミサトの気遣いによるもので、自分は当たり前のこととして享受していたにすぎなかったのだと、この数ヶ月で知った。

 おそらく、また休息が必要な時期なのだろう。「そういや……」と旦那は苦笑した。プロポーズから入籍まで半年の猶予をもうける話になったとき、「ちゃんと納得してからあなたと結婚したい」とミサトが言い出した。ミサトの案はこうだ。その半年間に食事に誘ってくる人がいたら食事をする、ただし食事以上のことはいっさいしない、というものだった。それを承諾する自分もどうかしていた。けれど、十分に納得したうえで結婚してほしい、と彼は思った。奇しくもモテ期だった彼女は3人の男と食事に行ったようだが、「3人には申し訳ないけど、あなた以上にすばらしい人はいないと感じた」と打ち明けてきた。この言葉は旦那のささやかな虚栄心と自尊心をくすぐった。そう、だから、もう大丈夫だと思っていたのだ――。

 彼は売場を一巡し、最後に卵のパックをかごの中にそっと入れた。

 交際当時から奔放なところがあった彼女のこと、そもそも結婚生活に向いていないのかもしれない。でも、彼女から別れを切り出さないかぎり、別れるつもりがないのも事実だった。ミサトのいない人生など、虚無そのものだ。それとも、自分から別れを切り出して彼女を自由にしてあげるべきなのだろうか。レジの列に並び、会計を待つつあいだも、彼の煩悶はつづいた。

 玄関に入り、彼は異変を察した。なんだろう。空気の歪みのようなものを感じる。いや、そんなものではない。においだ。だしのにおいがするのだ。彼は歩を速めて廊下をすすみ、リビングのドアを開けた。ダイニングテーブルの上に、深皿に盛りつけた何かが置かれていた。ラップに水滴がつき、深皿の内側の全景がにじんで見える。でも、なにかはすぐにわかった。ちくわぶの煮物だ。そして、この盛りつけとにおいは、間違いなくミサトの手によるものだ。
 ミサトが来たんだ。そう思うと、虚しさと物悲しさがこみ上げてきた。“勝手に家を出やがって”と汚濁した怒りがこみ上げてくるのを期待したが、怒りはこみ上げてこず、絶望的な切なさに圧倒された。いったん時空の歪みが修正されて近づいたのに、相手はまた手の届かないパラレルワールドに戻っていった。そんな切なさだ。

 探偵に依頼したり、LINEを送りつづけたりすれば、居場所を突き止められるかもしれない。でも、突き止めたところで、本人に戻る意思がなければどうにもならない。彼は椅子にすとんと腰をおろし、腕組みをしてうなだれた。深皿の内側では、ラップについた細かい水滴がひとつ、またひとつとつながり、やがてちくわぶの上に静かに滴り落ちた。

    ◇ ◇ ◇

 季節がひとつ流れ、冬になった。あれからもミサトは何度か、旦那の住むマンションに足を運んでいた。自宅とも別宅とも旧宅ともつかない、思い出のつまった場所だ。

 ちくわぶの煮物を作ったひと月後、マンションをたずねると、ダイニングテーブルの上にメモが置いてあった。

“ありがとう。煮物、美味しかったです。”

 旦那の几帳面な筆跡だ。旦那以外の筆跡のメモがあったら問題だと思ったが、ミサトははっとした。自分がそうしたように、旦那も自分以外の女を連れ込む可能性があるのだ。連れ込むだけでなく、同居する可能性だって。

 しばらく置きっぱなしだったのだろう。メモのところどころに茶色い斑点ができていた。メモ用紙に鼻を近づけてみる。紙のにおいしかしない。なにをつくったのだろう。彼の好きな衣笠丼だろうか。洗濯物も相変わらず、きれいにたたんでソファの片側に積み上げてあった。きちんと暮らせてるんだ、とミサトは思った。

 自分は何のために旦那と暮らしていたのだろう。愛していて、どんなに長く一緒にいても飽きたらず、1秒1秒が尊く大切な時間だった。“お世話係”がイヤで逃げ出したはずなのに、自分なしで暮らせている様子をみると、自分は何のために旦那と一緒にいたのだろう。お世話係ではなく、パートナーだと自負していたはずなのに。それとも、無意識のうちに、自らの役割をセックス付きのお世話係と位置づけていたのだろうか。

 
「――年末、どっか行こうか」と、ふいにトモヤが言った。ソファに寝ころんでテレビに目を向けたままだ。
「どっかって?」
「マザー牧場」
「なんでマザー牧場なの」とミサトは笑った。
「房総に親がいるからそのついでに。年末年始も帰ってこないっていうから、じゃあ、こっちから行こうかなと思って。ミサトにも会わせたいし。マザー牧場がいやなら、シーワールドでもいいよ」
 着実に幅寄せされてる、とミサトは思った。
「ご両親に会うのって、まだ早くない?」
「まだって、知り合って5年じゃん。で、いま一緒に住んでるじゃん。そろそろいいんじゃないかと思うんだよね」
「結婚するわけじゃないし、紹介には早いよ」といって、ミサトはテレビに目を向けたままのトモヤを一瞥した。なぜか彼はお笑い番組が嫌いで、Netflixで映画やドラマばかり見ている。いまも『ダーク・ジェントリー』に見入っていた。「それに、私、人妻だってわかってる?」
「おーおー、もちろん、ミサトちゃんに旦那さんがいるのはわかってますよ」
「なのに、ご両親に紹介するの? 彼女と不倫してますって?」
「まあ、旦那さんの話は伏せておくよ。ひとまずはね。で、もしこの先、旦那さんと別れるようなことがあったら、『離婚歴がある』ぐらいのことは話してもいいかもしれない」
 悪知恵が働くというか、トモヤはこういうクレバーなところがある。ミサトは感心しきりという体でトモヤの横顔を見つめた。
「ずっと気になってたんだけど、あなたはまだ23でしょ? 社会人1年目なわけじゃない? もっと遊びたいと思わないの? 同世代の女の子とデートするとか、一晩だけの軽い関係をもつとか、趣味や仕事に没頭するとかさ」
「ぜんぜん。そりゃ、先のことはわからないよ。合コンの数合わせで誘われたら、行ったりはするかもしれない。でも、合コンは嫌いだから誘われても断ってるし、そもそも先のことなんて、なんだってわからないもんじゃん。だから、ぜんぜん」

 ミサトが長年感じていた疑問に対する答えは、“ぜんぜん”の一言に集約されてしまった。
「だってさ、考えてもみなよ。たまたま喫茶店で隣の席に座った18の小僧がさ、勉強教えてくれますかって話しかけたわけじゃん。しかも、仕事中に。ふつうだったら、警戒して無視されるか、『忙しいんで』って断られてたと思うんだよ。だけど、ミサトは教えてくれたじゃん。教科の担当教師なんかよりよっぽどていねいに」というと、トモヤはくすくす笑った。「いまだから言えるけど、俺、あれで大学に入れたようなもんだもん。あれをもとにAOの提出資料をつくって、自己プレゼンをしてさ」
 熱意に欠ける赤字の添削指導をミサトは思い出した。たしかにあの教師の熱意のなさは常軌を逸していた。
「そんなこんなで、結局、ミサトに行き着くわけだ」というと、トモヤは忍び笑いをもらした。「無垢でもなかったけど、世間知らずな小僧にとっては結構鮮烈な体験だったのさ。あの出会いも、12も上の人とそんな関係になったのも。はじめての相手だったしね」
「え、前に関係をもった人っていなかったの?」。つまり、その、私が初体験の相手なわけ? もしかしてとは思ったけど、その割に違和感はなかったから深く考えていなかった。ミサトは、背負っていた荷が急に重くなったと感じた。
「前にはね。その後に2人と付き合ったけど、しっくりこなくて別れた」
 ミサトは、また1メートル、幅寄せされた気がしたのだった。

    ◇ ◇ ◇
 
 ミサトと旦那には年末の恒例行事とでもいうべきものがあった。ミサトはお節ともつかない、元日用の料理を何品かつくって大皿に盛りつけて冷蔵庫に入れておく。旦那はソファに横たわり、本を読んだり動画を見たりしながら、その光景にときどき目をやる。それにも飽きると、しぶしぶという様子で大掃除に取りかかるのだった。神奈川に住む旦那の両親とは松の内が明けたころに新年会をかねて会食、埼玉に住むミサトの両親は年末年始に旅行に出かけるのが常で顔を合わせることはなかった。

 今年は30日からトモヤと房総に行くことになっていた。彼のたっての希望で、30日はマザー牧場で来年の干支の動物に会ってから近くのホテルに泊まり、31日は朝起きて“海洋生物の気分だったら”シーワールドに行き、そうでないときは海岸沿いをドライブしてまた別のホテルに宿泊。元日の午前中にトモヤの両親を訪ねて、夕方前には帰京の予定だった。

 出発当日、トモヤは、房総行きのために借りたレンタカーに不満げだった。
「トヨタの車って、よくも悪くも優等生なんだよな。清く正しい運転感。間違いがない。でも、個性もあんまりない感じ」
 ふいにいやなゲップがこみあげてくるのを感じ、ミサトは口に手を添えた。酔ってきたのかもしれない。原因は、いま彼女の足もとに置かれているビニールの包みにあった。
 ファストフードのドライブスルーの看板を見つけると、トモヤはハイテンションでウィンカーを出して左車線に入った。車内に油のにおいが充満するとつらいから、せめて店内で食べたいというミサトに対し、「なにいってんの。めったに見かけないドライブスルーだよ? 車のなかで食べるなんて、ドライブ感満載でたのしいじゃん」とトモヤは譲る気がなさそうだった。車載スピーカーから流れるキリンジの『Drive me crazy』に合わせ、ノリノリでからだを揺り動かしていた。
 その結果がこれだ、とミサトは思った。
「お願い、窓全開にして」
「えー、寒いじゃん」
「だって、ほら」。ミサトは顔をしかめ、人さし指をくるくる回して車内を見まわした。「私がここで戻してもいいなら、話は別だけど?」
「はいはい、ごめんよ」とトモヤは悪びれもせず、肩をすくめ、右手で開閉ボタンを操作した。一気に吹き込んできた風に潮のにおいがまじる。海が近いことを告げていた。

  
 マザー牧場はその名のとおり、テーマパーク化した牧場だった。トモヤとミサトは一目散に牧羊犬のもとに向かい、ひととおりたわむれたあとは場内もぶらぶらと散策することにした。
 はじめて来たはずなのに、既視感があるのはなぜだろう。ミサトは思い出した。暗い時勢でキー局の朝のニュースを見るのがつらかった頃、チバテレビの朝のワイド番組を見ていたからだ。地元密着型の番組で、交通情報も天気予報も、何もかもが千葉に関するものだ。マザー牧場で子羊が生まれたという小さな記事が配信された翌日、その朝の番組はテレビクルーを派遣して生中継をしていた。地元密着という謳い文句に違わないフレキシブルさだった。
 
 動物とのスキンシップに飽きたトモヤは、ミサトとのスキンシップを求めるようになっていた。最初はじゃれつき、その次は手をつなぎ、腰に手をまわし、意味もなく見つめ、人目を忍んでキスをする回数が増えた。そろそろ引き上げたほうがよさそうだ、とミサトは思った。

「――さっきのフロントクラーク、見ものだったな」。トモヤは仰向けに寝そべり、片腕を折り曲げて手枕をした。そして、ミサトを見つめて忍び笑いをもらした。
 予約したホテルのフロントクラークは、そわそわしたトモヤを見て何かを感じ取った様子だった。「ごゆっくりお過ごしください」という言葉のニュアンスと、ふたりを見送る涼やかな視線にある種の含みがあった。彼の察しどおり、トモヤのそわそわは客室に入るやいなや一気に爆発したのだった。
 ミサトはトモヤの軽口を一笑に付した。「……ねえ、ご両親になんてご挨拶したらいい?」
「それって、ピロートークでする話?」とトモヤは笑って、ミサトの顔にかかった髪の毛を耳にかけ、額にそっとキスをした。「心配しすぎだって。うちの親、そんな堅くないから大丈夫。前もって、『彼女を連れてく』って連絡しといたし」
「結婚する予定もないのに、なんて紹介するの?」
「『真剣にお付き合いさせてもらってるミサトさん』はどう? どうとでも解釈できるじゃん」
「これって、真剣なお付き合い?」
「オレはそう思ってるけど?」
 やっぱり、来るべきじゃなかったのかも。まだ旦那がいる身なのに、旅行気分で房総まで来てトモヤの両親に会うなんてどうかしている。ミサトは東京に逃げ帰ろうかと思ったが、逃げるにはもう遅く、退路が断たれていることもわかっていた。

 玄関先に迎えに出てきたトモヤの両親を見て、ミサトは訪ねてきたことを後悔した。父親は目を丸くし、母親は温和な表情の奥に困惑の色が見え隠れしていた。そりゃ、無理もない。まだ社会人1年目の息子が、ひとまわりも年上の女を“彼女”として連れてきたのだ。
「ささ、どうぞお上がりになって」とトモヤの母親はうつむき加減にスリッパをすすめた。
「こんな田舎まで来ていただいて。ずいぶん引っ込んだところですけど、道に迷いませんでした? トモヤは運転がうまいとはいえませんし」。父親は彼を見やって愛想笑いをうかべた。
 案内された和室からは、替えたばかりらしい畳のい草の香りが漂ってきた。床の間には正月向けの掛け軸と生花が活けられ、部屋の中央に置かれた座卓にはどこからか取り寄せたらしいお節のお重が並んでいた。きっと、息子の花嫁候補が来るのだと期待いっぱいに準備してくれたのだ。そう思うと、ミサトは居たたまれない気持ちになった。
 それでも、新春の祝宴は和やかに進んでいった。途中、話題が尽きて押し黙っていると、「そうだ、ちょっと待ってくださいね」と中座した父親が奥から箱を積み重ねて戻ってきた。「これ、僕が子供のころに買ってもらったすごろくとかるた。郊外にマイホームを建てて一丁上がりだなんて、世相を表してますよね。いまは持つリスクを問う人もいるのに」
「その頃に建てた住宅は、老朽化が進んでいたり、空き家で放置されたりしているものも多いといいますよね」

 父親とミサトは空き家の老朽化問題の話で盛り上がり、母親は頃合いをみて“お雑煮の支度をしてくるわね”と立ち上がった。“お手伝いします”とミサトも立ちかけたが、“いえいえ、ゆっくりしてらして”と母親は微笑んでキッチンに向かった。最初のうちはトモヤも楽しげに輪に加わっていたが、父親とミサトの話が盛り上がるにつれて、ふたりの顔を上目遣いに見やっては面白くなさそうに部屋を出ていった。

 夕方、トモヤの両親宅を出るころには、父親とミサトはすっかり打ち解け、「いや、またぜひ遊びにいらしてください」「ありがとうございます。近いうちにまた」と挨拶をかわすまでになっていた。母親は相変わらず、賛成もしないけれど、反対もしないという体で愛想笑いをうかべていた。

 帰りの車のなかでも、トモヤはなぜか不機嫌だった。押し黙ってハンドルをにぎり、赤信号で停車したところでようやく口を開いた。正面を見据え、有料道路の入り口を確認しているようだった。
「父親とかなり盛り上がってたね」
「うん。話題の豊富な方だから、お話ししてて楽しくて」とミサトは当惑気味に答えた。「いけなかった?」
「いけないというわけじゃないけど」
 ミサトはトモヤのいわんとしているところがわかって当惑を深めた。「お父さんと私に嫉妬してるの?」
 トモヤは黙ったまま、ウィンカーを出して左車線に入った。そろそろ有料道路だ。
「本気で、お父さんと私がいい仲だと思ってるの?」
「ふたりには男と女を感じた」とトモヤはぽつりとつぶやいた。
 そもそも自分には旦那がいる。厳密にいえば、この関係は不倫だ。旦那との結婚は法的には継続しているし、トモヤとの関係も事実婚というにはまだ早く、同棲と呼ぶのがせいぜいだ。旦那との関係には無頓着なのに、なぜ父親とウマが合った程度で不機嫌になるのだろう。ミサトは解せなかった。
「お父さんって、女癖が悪かったりするの?」
「いや、オレの知るかぎり、それはない」
 ミサトは眉間にしわを寄せた彼の横顔を見ていて、ふとあることを思い出した。以前、ときどき通っていたビストロにトモヤを連れていったときのことだ。なじみの店員と軽口をたたきあっていたら、トモヤがスマホを持って表に出ていってしまったのだ。急ぎの電話をするでもなく、ふらっという様子で。10分後に戻ってきたときには店員を一瞥し、席につくやいなや何事もなかったのようにメニューを開いたのだった。
 たぶん、彼は私に相手がいようがいまいが構わなくて、目の前で自分以外の男と親しげにされるのが嫌なのだ、とミサトは思った。たとえ、それが父親であろうと。
「またご両親のところを訪ねる?」
「しばらくいいんじゃないかな」とトモヤは素気なく答え、有料道路に入ってアクセルを踏み込んだ。

 
 正月3日、翌日から仕事始めだと嘆くトモヤをなだめ、ミサトは表に連れ出すことにした。“最近さぼりがちだったから、そろそろジム通いを再開する”と年初に誓った彼をなかば強制的に連れていこうと思い立ったのだった。彼がトレーニングに励んでいるあいだ、ミサトは近所の本屋やスーパーを物色し、彼がジムから出てきたタイミングで腕を取って歩き出した。肌はつやつやと上気し、からだからはボディソープのいい香りがした。どうやら、ちゃんとメニューをこなしたようだった。

 近くの公園では、妻にいわれてしぶしぶ出てきたらしい子連れの父親が砂場にしゃがみ込み、孫を連れた老齢の女性は危なっかしい足取りでブランコをうしろから押してやり、小学生たちは携帯ゲーム機を手にベンチに集っていた。
 ふたりはどちらからともなく公園に立ち入り、隅のベンチに腰かけた。
「子供ってほしい?」と、ブランコの幼児を見ていたトモヤが言った。
「いや、考えたことないね」。ミサトはけだるげな砂場の父親に目をやった。早々に切り上げてうちに帰りたそうだった。「夫というか、パートナーとの暮らしを満喫したいから。自分のライフスタイルに子供は必要ないと思ってきた」
「そうなんだ。オレは子供、ほしいな。自分が一人っ子だから、兄弟がいる状況にあこがれがあるんだよね」
「それは意外」
「でしょ? 自分でも意外」
 ミサトが隣を見やると、トモヤは遠くを見つめて微笑んでいた。そこに彼女が出会った当時の彼の姿はなかった。少年と青年のはざまを漂っていた18歳の彼はとうに消え、精悍なたたずまいの青年が座っていた。
「この先、トモヤはどうしたい?」
「どうって?」
「私には旦那がいて、別れるかどうかもわからない。お試し同棲をつづけるには重い状況だし、本気でつきあうには見通しがたたない状況でしょ?」
 よく聞くのは、逆のパターンだとミサトは思った。男に妻がいて、不倫の関係で、見通しのたたない関係にしびれを切らした女が、“この先どうしたいの? 奥さんと別れるつもりはあるの?”と詰め寄るあれだ。ミサトは“ずるい男”よりずるかった。旦那と別れる気持ちがあるのか自分でもわかっていないのに、もしかしたら刹那のお遊びかもしれないのに、トモヤに誠意を求めたのだから。
「ミサトが旦那さんと別れる覚悟ができたら、結婚を申し込むかもしれない。両親に紹介したのだって、その可能性があると思ったからだし」
「トモヤは子供がほしいと思っていて、私は子供を持つつもりがないこともいまはじめてわかったわけでしょ?」
「そりゃ、気軽に聞けるようなことでもないしね」とトモヤはなだめるように言った。そして、ミサトの肩に腕をまわし、頭頂部にそっと唇をつけた。「意見が衝突したら、そのときどきで話し合っていけばいいじゃん」
 うん、とうつむいてミサトは考え込んだ。「でも、意見が決定的にちがってどうにもならないときは、どっちかが折れることになるわけよね。あるいは……」
「別れるか? それは避けたいな」
「できるだけ避けたいけど、お互いを傷つけあって不幸になるよりはいいのかもしれない。最善の方法ではないし、あくまでも一般論だけどね」

   ◇ ◇ ◇

 いったいどういう了見なんだろう、とミサトは内心息巻いた。

 取引先から急ぎで打ち合わせをしたいと連絡が入り、都心まで出向いた帰りだった。用件は電話やメールでも済みそうな話で、担当者が用件を文章にまとめられず、打ち合わせという名目で呼び出したようだった。「まったく……」とミサトはまたため息をついた。

 それにしても、等々力から都心は遠い。その逆もしかりだ。環境はいいんだけど、都心から遠いのがネックだよなとミサトはひとりごちた。

 午後6時過ぎの渋谷駅は帰宅ラッシュのさなか。左右に人の流れが分かれ、混乱もなく規則的に往来している様子はいつ見ても感心させられる。とぼとぼと東横線のホームに向かって地下道を歩いていく。ふと、ここが旦那の通勤経路だとミサトは思い出した。逃れたくてしょうがなかったのに、気づけば、旦那のことばかり心配している。彼がひとりで暮らせていることは、“旧宅”を訪ねたときに見てわかっていたし、自分がいないならいないなりにやっていける人だともわかっていた。彼には自分が必要だと思うのが尊大なエゴだということも。

 でも、なんだろう。

 旧宅を出て半年近く。今後、彼が自分の人生に関わりをもたないことが、また自分が彼の人生に関わりをもたないことがいまだに信じられなかった。そう考えるたびに、家を飛び出したのはどっちだと自戒するのだが、それでもしばらくすると、この先に待ち受けているであろう数十年という自分の人生が終わるまでの時間と、その時間軸に彼がいっさい交わらないことを考え、途方もない虚無感に襲われるのだった。

 そろそろ改札が近づき、ミサトはバッグのポケットに手をつっこんでパスケースを取り出そうとした。さっき入れたはずなのに見つからない。一瞬、バッグのなかに視線を落とし、ハンカチのあいだにパスケースが挟まっているのに気づいた。ふたたび視線をあげると、見覚えのある顔が正面から近づいてきた。旦那だった。ベージュに格子柄のツイードのコート。一歩まちがえると老けて見えるそれを、彼はいつもどおりしっくり着こなしていた。

 旦那は目を丸くし、左側通行の道を途中まですすむと、ちょうど人の流れが切れたところで折り返してきた。軽くうなずき、改札近くの柱の陰にミサトを誘導した。 
「ひさしぶり……でいいのかな」。旦那は足もとに落としていた視線をあげて、ミサトの顔をのぞきこんだ。
「ごめんなさい。勝手をして」。ミサトは足もとに視線を落とした。旦那の靴はきれいに磨き上げられていた。
 旦那はうっすらと笑みをうかべ、首を左右に振った。「煮物、ありがとう。八宝菜も美味しかったよ」
「ごめんね、留守中に勝手に入って」
「さっきから謝ってばっかだなあ。あそこはミサトの家でもあるんだよ」と旦那はなだめ、言葉を継いだ。「あれは、カラオケボックス以来の感動だった。あの弁当の全景、いまでも鮮明に思い出せるもんな」
 結婚前、彼が忙しく帰宅もままならなかったときのことだ。見かねたミサトが弁当をたずさえて彼の会社近くまで出向き、持ち込み可のカラオケボックスで一緒に食べたのだ。多忙を極める彼は精神的に参っていて、おにぎりを一口かじった瞬間、ぽろぽろと涙をこぼしたのだった。
「ちゃんと暮らせてるみたいね」
 旦那はそれには答えず、黙ってミサトの目を見つめた。こんなふうにまっすぐに見つめられたのはいつ以来だろう。彼女の耳のなかでは雑踏の狂騒が反響し、視界の端で興味本位の一瞥をくれる人たちの姿をとらえていた。
「でも、寂しいよ。住み慣れた家が他人の家のように感じることもある」というと、旦那は一呼吸おいてつづけた。「もし不満があるなら言ってほしい。知らず知らずのうちに負担をかけていたなら言ってほしい」
 ただ逃れたかっただけ、自由と孤独、そして刺激を渇望していただけ、とミサトは内心つぶやいた。
「なにも。少なくともあなたには。私が勝手だっただけ」
 旦那がふいに口を開いた。「もしこの先もそうあるなら……俺と一緒に歩む人生は、ミサトにとって幸せ?」
「あなたにとっては?」とミサトは問い返した。
「この上なく幸せだし、可能なかぎり温めていきたい」
「私が幸せでないといったら? 別れる?」
「いや、それ以外の方法を模索する。幸せだと感じてもらえるように最大限努力するよ。別れるかどうかはその先の話だ」
「私が幸せだといったら?」
「もっと幸せだと感じてもらえるように力を注ぐ」
 雪解けの空気がふたりを包み込んだ。ミサトは言葉もなく、旦那のコートの胸元のボタンを見つめていた。
「帰ろうか?」と旦那がミサトに手を差し伸べた。「俺の人生とあの家にはミサトが必要だ」

 いつかまた逃げ出すかもしれない。けれど、いまは帰りたい。旦那のもとに。彼と築いてきた堅牢な楼閣に。ミサトは旦那の手をとり、一緒に階段をのぼりはじめたのだった。
 

オトナをやめる~グッバイ・ミドルエイジクライシス~

 
 ちょっとした事業活動に関わるようになった。突如として社会性がめばえたわけではなく、以前と違って書き物仕事も減り、週の半分は時間を持てあますようになったからだ。

 暇になると、人はろくなことを考えない。ある人は消し去りたい過去の記憶を反芻しては煩悶する。またある人は、7つの大罪のどれかに手を染める。そして、私は空想世界をさまよう一方で、自分の行く末を案じて気が滅入ることが増えた。もともと見通しが明るかったわけではないが、30代半ばになり、ミドルエイジクライシスが蜂の大群のように脳内の隅っこから中央に向かって襲来することが増えた。
 この10年来、所用、打ち合わせ、散歩、街歩き、買い物以外ではほとんど家を出ずに暮らしてきたが、無情にも流れゆく時を肌身に感じながら何もせずに過ごすのが苦痛になってきた。町内一の怠惰の女王だと自負してきたのに、ついにその座を退くときがやってきたのだった。

 それで関わりはじめたのが前述の事業活動だった。かねてより関心のあった分野で、週に数日だけとはいえ刺激も多い。社会人経験の乏しさから、組織内で立ち回るのに苦労するだろうと案じていたが、即戦力や具体的な利益をもたらす存在と見なされていない分だけ気負いも少なく、徐々に慣れていけばよいのも好都合だった。
 ただ、対人スキルが求められる分野で、時にはハラスメントに相当する発言をする人も現れる。変質者が目の前に現れて、満面に笑みでズボンとパンツを下ろしはじめたら相応に動揺するし、恐怖のあまり凍りつくかもしれないが、多少のセクハラ発言ならこちらも動じない。受け流すか、法的措置も辞さないことを示してやんわり諭す。それで問題は解決する。

 しかし、伏兵は常に死角に潜むものだ。事務作業をしていたとき、たまたまスタッフの青年Aと2人きりになった。彼がふいに口を開いた。

「こういう作業って、得意ですか?」
「資料の整理はあまり得意ではないですけど、領収書の整理なら得意ですよ」といいながら、私は作業をつづけた。
「そうなんですね。うちの母はどうもこういう作業が苦手で、僕がかわりにやったりするんですよ」

 私の手がとまる。せまい事務所に雷雲が広がり、脳天に稲妻が突き刺さった。

 
 落ち着け。

 
 青年Aは20代前半。私より10歳ほど年下で、かつて友達以上恋人未満だった彼よりもひとつかふたつ年上なはずだ。そんな背景をもつ青年Aに、私は母親と同じ枠に入れられたのだろうか。そういえば、最近、“お姉さん”呼ばわりしてくるのは、30歳前後以上の男性ばかりになった。生徒の平均年齢が異様に高い三味線教室で、50代の女性が“お若い方”と呼ばれるのと同じ法則だ。

 以前は“お姉さん”呼ばわりされると、軟弱フェミニストの血が騒ぎ、軽んじられている気がして内心憤慨したりした。“マドマゼル”より“マダム”と呼ばれたかったのだ。それが最近は情けないことに、“お姉さん”呼ばわりされるとまんざら悪い気がしない。かすかな抵抗を感じる一方で、“お姉さん”って呼ばれちゃったと思ってスキップまでしかねない勢いだ。

 
 全身をもやもやとした暗鬱な思いに包まれながら作業を続行し、自宅の玄関ドアを開けるころには、ドロドロとしたスライム状の粘着物になって室内に流れ込んだ。

 ソファーで本を読んでいた夫が何事かと目を丸くした。私は数時間前に起きた悲劇をせつせつと報告し、慰めを乞うた。彼はいつものように顎髭をいじりながら熟考モードに入った。彼はなにか疑問に直面すると、相手の言動や行動を分析または推理する癖がある。その根拠を示してもらえれば、“母親枠”に入れられた傷も癒えるにちがいない。そう期待した。

「現在、青年Aが密に接する女性は母親のみで、領収書の整理という言葉から浮かんだ比較対象も母親だけだったんだよ」

 なるほど、青年Aの常日頃の言動から察するに、夫の推理も一理あるかもしれない。3次元の女にあまり関心がなさそうな様子もある。そんな青年Aにとって、生身の女はかえってリアリティがないのかもしれない。いや、待てよ。

「でも、私、あなたより5歳上だけど、前にあなたのスーツを作りにいったとき、ショップの店員さんに“お母さん”呼ばわりされたことあったよね? 私の耳には『お茶いかがですか?』としか聞こえなかったんだけど、あなたが『お母さんって言われたね』と苦笑気味にいって」
「その話は蒸し返さないで」

 ある紳士服店に赴いたときだった。店員と客が机をはさんで向かい合わせに座り、サンプルを見ながら布地やスーツのデザインを選ぶ形式の店で、ちょうど台本を開いた頃合いで他の店員が飲み物を勧めてきた。まずは夫にたずね、つづいて私にもたずねた。その際、私は「お茶、いかがですか?」と聞かれたつもりでいたが、夫の耳には「お母さんもいかがですか?」と聞こえたらしい。当時の夫は実年齢よりだいぶ下に見えた。成人式まではいかなくても、社会人生活のスタートに合わせてスーツを作りにきたと思われたのかもしれない。

 店員が席を外した隙に、夫が苦笑気味に言った。「『お母さんもいかがですか?』って言ってたね。ふつう、こういう店だと、客から関係性についてわかるような発言がないかぎり、関係性を推測して言ったりしないものなんだけど」
「お母さんなんて言ってないよね。『お茶、いかがですか』と私の耳には聞こえたんだけど」
「はい、そうです」

 思い返せば、もうあのとき、坂道を転がりはじめていたのだ。ううん、極論をいえば、生まれたときからエイジングは始まっていたのだ。ずっと上り坂であればいいものを、いつしか下り坂に入ってしまっていた。仮にするとしても、フェイスリフトやボトックスはもう少し先の話だと思っていたが、前倒しするべきではないだろうか。
 それとも、精神面の問題だろうか。成熟せず、幼稚なまま老化していっているのだろうか。全身をピンクハウスの服でコーディネートした100歳の老婆の姿が目に浮かんだ。いや、それが似合う人ならいい。でも、私は似合わないし、そこまで振り切れない。

「あと、君はしゃべり方も落ち着いているから、それも一因なんじゃないの?」と、茫然自失と箸を運ぶ私に夫がだめ押しで言った。
「それって、しゃべり方がババくさいってこと?」
「すいませんでした」

 静まり返る食卓。地球滅亡を翌日にひかえた晩餐でも、もっとにぎやかだったにちがいない。

 
 翌朝になってもダメージは癒えず、夫を送り出してから、布団に潜り込んだ。頭まで布団をかぶって悶々としているうちに眠ってしまったらしい。私は夢のなかで、どちらといえば急進的なフェミニズムを信奉する旧友と侃々諤々やり合っていた。

「年齢差別もそうだが、どうしておまえは性差別と戦わないのだ。“お姉さん”呼ばわりされたら抗議すべきだ」と旧友は静かに叱責する。

「たしかにそうなのだが、いま私が関わっている団体のスタッフ側でない人たちは、自分より年下であったり、名前を知らなかったりする女性を“お姉さん”と呼ぶことを当たり前とするカルチャーで生きてきた人が多い。“お姉さん”呼ばわりが性差別に相当すると気づいていないのだ。無自覚の差別意識が潜んでいるとは思うが、長時間接するわけでもない相手に、ハラスメントだと抗議する時間も労力もないのが現実だ。たとえば、商店主に“奥さん”や“お姉さん”と呼ばれたからといって、猛然と抗議したり、議論を吹っかけたりするわけにもいくまい。それと同じことなのだ」と私は反論した。

 20代時分に同じようなシチュエーションで“お姉さん”呼ばわりされていたら、さりげなくでも抗議はしたかもしれない。若さゆえの融通の利かなさであろうと、きちんと権利主張はした。でも、いまは場の空気を乱さないことを優先するようになったうえ、「うわ、必死だ」と痛々しく思われるのを恐れるようになったのかもしれない。そう恐れる私自身、エイジストなのだ。

 明確な差別や不当な扱いであれば、抗議もしやすい。なんなら法的措置をとることもできる。先だって発生したアメリカの航空会社・ユナイテッドによるアジア人差別と、それに端を発する乗客への暴行事件などもそうだ。けれど、日常の小さな違和感には抗議しにくい。今回のケースは、「もしかすると、10歳ほど年下の青年に“母親枠”に入れられたかもしれない」という非常に曖昧なものだ。ただただ、もやもやした気持ちを抱えて消化不良のまま霧消するのを待つしかないのだろう。そして、霧消した頃にはまた新たな小さな違和感に見舞われるのだ。

 20代より30代のいまのほうが楽しい。それと同時に、精神年齢が追いついていないのに、生物年齢ばかりが進むことに不安も感じている。いつまでもいたちごっこで、きっと精神年齢は死ぬまで生物年齢に追いつかない。いつしか、若者に貸与される免罪符や猶予特権も期限が切れていた。実際にそういう選択肢をとるか否かは別として、奔放で無責任であっても咎められない立場でありたい。
 “お姉さん”呼ばわりされて軽んじられることにかすかな抵抗を感じる一方で、性愛市場ではしばしばアドバンテージとされる“若さ”を失い、性的な存在として意識されなくなることも怖い。完全にミドルエイジクライシスだ。

 かくなる上は、時間をかけてでも自分の気持ちと折り合いをつけなければいけない。私は全身をピンクハウスの服でコーディネートした100歳の老婆にはなれないのだから。
 右か左、どちらか極端に触れるのも違う気がする。唯一の治療法はきっと、年齢という概念、とくに“オトナ”という概念から自由になることだ。そうだ、オトナをやめればいいのだ。そして“痛々しい人”と見なされても、それを甘受する。どう見られたいかではなく、どうありたいかを優先する。私は自由だ。自由になるんだ。脳内に現れた断崖絶壁の崖っぷちでそう絶叫した。