駆け落ちはしたけれど――ミサト、34歳の場合――

  
 風呂上がりに鏡を見て、ミサトはギョッとした。そこには知らない人が映っていた。それが自分だと気づくのに10秒はかかった。嘘だ。否定してみても、映っているのはまぎれもなく自分だった。

 いつの間にこんな所帯染みてしまったのだろう。結婚して生活環境が変わったせいなのか、2倍速で年を取っている気がする。気を張っているときは大丈夫でも、少し気を抜くと、所帯染みた感じが見た目に表れる。

 フリーでやっていた仕事は減り、旦那の世話が主要な業務になった。旦那より10分だけ早起きし、お弁当をつくるかたわら朝食の支度をし、送り出し、洗濯物がたまっているときは洗濯を、埃が気になるときは掃除をする。食材や日用品が不足していれば、夕方までに近所のスーパーに行くか、ネットスーパーなどで買い足す。水まわりの掃除と食器洗いは旦那の仕事だ。あとは何をしても自由。仕事でパソコンの前に座るのは週に二度ほどになった。

 
 ある晩、長湯をしたときのことだった。髪の毛と体を洗い、ムダ毛を処理し、洗面台の前で化粧水や乳液を顔につけ、髪の毛をドライヤーで乾かし、まじまじと鏡を見つめる。やっぱり、2倍速で年を取っている気がする。もう後戻りはできないのだろうかとミサトは肩を落とした。

 ベッドに向かうと、すでに旦那は寝入っていた。きっと最良の選択をしたんだ、と旦那の寝顔を見てミサトは自分に言い聞かせた。見た目も好みだし、人柄も申し分ない。価値観も変わらず、一緒にいて心地がいい。収入に不安はなく暮らしも安定している。くじ運の悪い自分が、箱いっぱいに詰まったくじのなかから、よく当たりを引き当てたとも思う。旦那が言うように、お互いにとって“ピッタリ賞”だったのだろう。でも、結婚という点については、向いてなかったのではないかという思いが日増しに大きくなっていた。同棲すら無理だと思うくらい縛られるのが苦手だったから、結婚なんて遠い世界の話だと思っていた。

 いま全てをなげうって逃げ出したらどうだろう。枕元に置いたスマホを手に取り、ロックを解除する。LINEの“トモヤ”の欄をタップした。

“地方に配属になったんだ。ついてきてくれない? やっぱり一緒に暮らしたい”

 もう何日も既読スルーになっていた。ついてきても何も、まともに付き合ったことすらないのに……。

 
 知り合った当時、トモヤはまだ高校3年生だった。場所はオフィス街の外れにあるルノアール。まわりはスーツ姿のサラリーマンばかりで、オレンジ色のTシャツを着てオレンジジュースを飲み、参考書を見てはうなずき、黙々となにかをノートに書き込む彼の姿は人目を引いた。打ち合わせ相手から遅刻の連絡が入って時間を持てあましていたとき、隣の席に座っていた彼が話しかけてきた。

「あの、英語って得意ですか?」
 さも当たり前のように聞く彼に、ミサトは面食らった。
「いや、英語は苦手ですね」
「小論文は? さっき、パソコンで何か書いてましたよね?」
 ミサトが眉をひそめると、トモヤはあわてて首を小刻みに振った。「あ、のぞき見したわけじゃなくて、たまたま見えちゃって……」
「小論文なら、なんとか教えられるかな」

 それがはじまりだった。「法律上、問題のない年齢になってから」と諭して、ミサトは何度かデートをした。肉体関係も何度か持った。彼との気負わない関係は新鮮だし楽だった。キスをした時点でいろいろわかることがある。この人とはうまくいきそう、セックスの相性もよさそう、そういう予感は8割方あたる。トモヤもそうだった。

 しばらく連絡を取らなくても、トモヤとの縁はなぜだか途切れなかった。会うはずのない場所で鉢合わせすることもあったし、忘れた頃に電話をよこしたりもした。彼は何かとミサトに相談してきたし、ミサトもそういう彼を憎からず思っていた。そんな彼も今春社会人になった。これを機に一緒に住もうと言われたのは、大学の卒業が間近に迫ったころだった。

「旦那との生活があるから無理」とミサトはきっぱり断った。そして、新人研修が終わり、トモヤの配属先が地方に決まった。トモヤはめげなかった。一緒についてきてほしいという。きっと無理だろう。手がかからない旦那と暮らすだけでも、フラストレーションがたまるのだ。トモヤと暮らしたら子供の世話をするのと変わらない。自由になりたいのに、かえって負担が増えると目に見えている。

 でも、ミサトはひとりで生きていく自信を失っていた。仕事と結婚生活を両立できるほど器用ではなく、旦那と暮らしはじめてからフリーでやっていた仕事は減らさざるを得なかった。そのうえ2年あまり結婚生活を送り、明かりのついた部屋に帰ることも、誰かの帰りを迎えることもなく、毎晩ひとりで食事をする暮らしに耐えられるか自信がなかった。

 何日かして、夕方のバラエティ番組を見ながら取り込んだ洗濯物をたたんでいた。

“元カレ/元カノと連絡を取ることはありますか?”

 そんな質問が視聴者に投げかけられていた。あります――内心答えて失笑する。あれを元カレと呼んでいいなら。

 そうしているうちに旦那からの帰るコールが入った。それを合図にミサトはキッチンに立つ。野菜を切り、薬味を刻み、魚をさばき、塩を振り、メジャーカップで調味料をはかる。そして、ふと我に返った。なにしてるんだろう。逃げたい。逃げよう。

 
 次の金曜の早朝、ミサトはダイニングテーブルに置き手紙をした。封をせず、表には旦那の名前を書いた。離婚届も役所からもらってきたが、そこまでの覚悟はできていなかった。常に退路を断って前に進んできた自分らしくもない。結局、手紙を書き終わったあとに、離婚届はちりぢりに破って捨てた。

 荷物は最小限必要なものだけキャリーバッグに詰めた。携帯電話やクレジットカードや銀行口座は落ち着き先が決まりしだい解約し、新しく契約するつもりだった。足跡を追おうと思えば追えるが、旦那は自分の意思を尊重して無理には引き戻そうとしないだろうとミサトは思った。本人がそうしたいならしょうがない。その気になったら帰ってきてほしい。旦那はいつもそうだった。過度の尊重がいつか無関心に形を変えそうで怖かった。

 ミサトは玄関で靴を履こうとして迷い、寝室に戻って旦那の寝顔を見つめた。切れ長の目にまつ毛がびっしり生え、長くて持てあまし気味の毛先がカールしている。よくふざけてつまんだっけ。ミサトは心のなかで何度も許しを乞うた。ごめんね。愛してるけど、自由になりたいの。旦那の左手薬指には結婚指輪が光っていた。結婚指輪。隠す必要もないのに、トモヤと会うときだけ後ろめたくて外していた。
 ダイニングに戻って、テーブルの上を確認する。手紙の上に外したばかりの結婚指輪をのせた。隣にはもう作ることのないお弁当。残酷かもしれない。でも、まだ愛していることを形で示したかった。左手薬指の根元に薄く指輪の跡が残っている。もう二度と見ることはないものの痕跡だった。

 
 東京駅の新幹線改札に向かうと、すでにトモヤが待っていた。童顔ではあるものの、こうして見るともう立派な大人だとミサトは感じた。ミサトの姿を認めると、トモヤはまるで卒業旅行にでも行くかのように気安く手を振った。

 朝食用のサンドイッチとお茶を買って、新幹線に乗り込んだ。車窓を流れゆく景色を見ては、心もとない気持ちになる。住み慣れた街を離れ、未知の世界へと猛スピードで向かっている。普通列車を乗り継いで、目的地との距離を少しずつ縮めればよかったかもしれないとミサトは思った。

 新幹線の高架と山に挟まれた小さな集落がトンネルを抜けるごとに現れる。古い農家の軒先に手ぬぐいをかぶった老婆の姿が見えた。民家やマンションが無数に並び、どこにいても人の気配を感じる東京に住んでいると、人の様相こそ多様でも人間の営みが大きな集合体に見えてくることがある。たった一瞬目に入った山間の景色に、個の人間の営みを垣間見た気がした。

 北国のターミナル駅で電車を乗り継ぎ、たどり着いたのは日本海側の小さな町だった。自治体としては市だが、町と呼んだほうがしっくりくる雰囲気だ。さびれた商店街を見て、ミサトはくすっと笑う。絵に描いたような駆け落ちだ。

「ここで暮らすの?」とトモヤが顔をしかめた。
「だって、ここの支店に配属になったんでしょ?」

 少数精鋭で切り回す小さな支店に逸材として配属されたのか、お荷物の支店にお荷物として配属されたのかはわからない。でも、楽天的なトモヤは、もし合わなければ、都内の実家に戻ればいいと考えていた。気楽な人生設計だった。

「みんなどこで買い物してるの? 店、閉まってるじゃん」とトモヤは、駅前からまっすぐに伸びる商店街を見渡した。目抜き通りの商店街はほとんどシャッターが閉まり、食料品関係の店と和菓子屋が営業しているだけだった。
「たぶん、町外れのモールに行くんじゃない?」と言って、ミサトはトモヤの絶望感をあおるようにつけ足した。「そして、そのモールとモールの周辺がこの町の中心。商業施設も娯楽施設も飲食店も。お金を使うところはそのへんだね。同級生や近所の人、会社の人もみんな来てるから、そのうちの1人には必ず会う」
「オレたちがルミネでバッタリ会ったときみたいな奇跡感はゼロだね。誰かに会って当然だ」
「あのとき一緒にいた女の子とその後どうなった?」。ミサトは不意打ちで聞いた。
「いや、どうもこうもただの友達」とトモヤは煙にまき、物珍しそうに見慣れない色のタクシーに目をやった。

 別に付き合っているわけでもないのに、トモヤは交際相手の存在を決して明かさなかった。本当にただの友達だったのかもしれないし、あるいは軽い付き合いだったのかもしれない。本当のところはわからなかったし、ミサトも詳しく聞く気はなかった。

 ミサトから結婚したと聞いても、トモヤは気にする素振りを見せなかった。「別にオレたちの関係に変わりはないんでしょ? 会ってお茶ぐらいならできるんでしょ?」と、なんでわざわざそんなこと言うんだろう、と不思議そうな顔をして。会ってお茶したのも数える程度だったし、ましてそれ以上のことは一度もなかった。トモヤも前のようには誘ってこず、そんな欲望を秘めている様子すら見せなかった。けれど、駆け落ちの数日前、今後のことを相談するために会って、単にひた隠しにしていただけだとわかった。彼は2年分の思いを爆発させた。

 
 駅前からタクシーに乗り込むと、トモヤはメモを見ながら運転手に行き先を告げた。運転手がルームミラー越しに後ろを一瞥する。親子にしては年が近いし、恋人にしては年が離れている。そんな想像をめぐらしているのだろうか。ミサトは年相応、トモヤは童顔だ。ミサトは運転手の視線を視界の端でとらえて、そのまま受け流した。

 対向車線から地元ナンバーの車ばかりが走ってくる。黄色いナンバーの軽自動車がいやに目についた。
「しばらく住むなら、車、どうにかしないとね。営業車の自家使用はダメなんでしょ?」とミサトは聞いた。
 トモヤがこくりとうなずく。「だね。でも、オレ、オヤジの車をたまに運転するくらいなんだよね。気が向かないときに運転するのはつらい」
「私もペーパーだし、練習しないとな」
「軽は嫌だから、それ以外でリースかな」

 トモヤは世田谷のアップタウンで生まれ育った。彼には経済性を優先する発想があまりなく、近所の家のガレージに軽自動車が止まっているのも見たことがなかった。軽自動車の経済性よりダサいというイメージが先行して拒絶反応を示したのだろう、とミサトは思った。

「お客さんたち、東京から?」とふいに運転手が声を発した。ずんぐりとして浅黒く、目からは生気が感じられなかった。
「ええ」
「話聞こえたんだけど、こっちだと軽はふつうだよ。足がわりだからね」
 運転手がバックミラー越しにトモヤを一瞥した。トモヤは目を丸くし、徐々に眉根をよせた。不快に感じたときに彼が見せる反応だった。
「まあ、馴れることね」と、ミサトはトモヤの耳もとでささやいた。
 
 やがて田園風景が見えてきた。山寄りの地域で、田畑を潰して設えたようなアパートが点在している。どうもそのうちの1棟に向かっているようだった。
 てっきり潮風のかおる場所で、洗濯物もベタつくんだろうと覚悟していたミサトにとって、これはうれしい誤算だった。ただ、ここだと買い物する場所がない。立ち入られたついでにミサトは運転手に尋ねることにした。

「このあたりだと、買い物するところってどこがいちばん近いんでしょう?」
「近いのは駅前の店。でも、車止めっとこないし、品ぞろえも悪いから誰もいかないよ。みんなモールにいく。便利な東京と違って買い物するとこ、あまりないからね」と運転手は嫌味ったらしく言った。
 ミサトは苛立ちながらも、食いしばった歯の隙間から声を発した。「モールまでの交通手段は?」
「ここらじゃ自分で運転しないと、どこにもいけないよ」といって、運転手は道路沿いにぽつりと立つシャッターが閉じたままの商店に顎をしゃくった。錆びついたシャッターとは不釣り合いな真新しい標識が店先に立っていた。「モール行きの循環バスなら、そっから出てるよ。乗るのは年寄りばっかだけど」
 そういうとタクシーは左折し、薄緑色のアパートの前で止まった。運転手はミサトとトモヤを降ろし、トランクのロックだけ解除して、荷物は自分たちで下ろすようぶっきらぼうに言い放った。

 走り去るタクシーを見送りながら、トモヤが憤懣やるかたない様子でつぶやいた。「なにあれ、感じ悪いな」
「売り上げがはかばかしくなくて、苛立ってただけかもしれないし」とミサトはなだめた。運転手の敵意むき出しの警戒感に、遠くに来たんだとミサトは感じた。

 新居は2階の角部屋だった。広めの1Kで、まだ家具の入っていない部屋はがらんとしていた。
「家具は手配したの?」と言いながら、ミサトはベランダ側の窓を開けた。田園のなかに民家が点在し、その先には小さな町と鉄道駅、さらに先には海が広がっていた。
「いや、これから。面倒だから、ネットで注文しようと思ってる」といって、トモヤは1間に満たないクローゼットを開けた。支店が借り上げた部屋で、彼自身はじめて立ち入ったという。「2人分の荷物入るかな」
「家電は?」
「ああ、母親が手配したみたい。明日には届くよ。布団は今日だったかな」
 ちょうどそのとき、インターフォンが鳴った。
「タイミングがいいな」とトモヤはニヤニヤしながら玄関に向かい、受け取りのサインをして宅配便を受け取った。その場でダンボールを解体して、なかから寝具セットを取り出した。すばやく広げて床に敷き、エアコンのスイッチを入れ、ベランダ側の雨戸を8割方閉めて戻ってきた。部屋が薄暗くなった。
「さてと」。トモヤが手を差し出してミサトを抱き寄せ、耳もとでささやいた。「新生活を祝おう」

 
――心地よい気だるさにまどろんでいると、トモヤの電話が鳴り出した。

「ごめん、電話だ」

 相手は彼の母親だった。横で盗み聞きするのも悪いと思い、ミサトは浴室に向かった。シャワーを浴びて出てくると、今度は別の人と話していた。

「いや、それが何にもないんだって。マジでビビるよ。オレらが子供のころって、まわりに結構畑があったじゃん? あの比じゃない。田んぼしかないの、ここ」

 地元の友達のようだった。彼が地元の友達と話すとたいてい長くなる。ミサトは食材がないことを思い出し、買い物に出ることにした。さっと身支度をすませ、“買い物に行ってくるね”と打ったスマホのメモ帳をトモヤに見せた。彼は親指と人差し指で丸をつくってうなずいた。

 アパートを出て5分ほど歩き、タクシーの運転手に教わったモール行きのバス停までやって来た。年代物のアイスと清涼飲料水の自販機が錆びてもなお存在感を示そうと、草むらのなかに屹立していた。
 バス停の時刻表を見ると、次のモール行きは1時間後。予想していたとはいえ、ミサトは思わずため息をついた。いったんアパートに戻って時間をつぶすか、それとも駅前の商店まで歩いていくべきか。駅前に数軒残った商店を回れば、どうにか2~3日分の食料は買い揃えられそうな気がした。グーグルマップで確かめると、駅前まで30分の距離だ。早足ならもう少し早く着くかもしれない。仕方ない。歩こう。

 そう決心して歩き出したものの、思ったより道のりは険しかった。田園風景に囲まれたアップダウンのない道を延々と歩いていると、足かせをされた囚人のような気分になってくる。変化に乏しい景色は、長い道のりをより長く感じさせた。ときおり通り過ぎる車の運転手がミサトのほうを見やっていく。無理もない。服装もバッグもよそ行きだったのだ。そんな女が田園風景のなかをひとり黙々と歩く姿は人目を引いて当然だった。

 心細くなって、バッグのなかをまさぐってスマホを取り出す。新幹線に乗る前に電源を切ったままだった。それをさっき、マップを見るために電源を入れた。LINEのアイコンの端に“5”と数字が表示されていた。トーク一覧のいちばん上に旦那の欄がある。心配するようなメッセージの書き出し部分が表示されていた。タップしたら既読がついてしまう。ミサトは心を鬼にして電源を切ったが、やはり気になって仕方がない。もう一度だけ。そう思って電源を入れると、アイコンの隅に“6”と数字が表示されていた。おそるおそるトーク一覧を開くと、トモヤからのメッセージだった。

“ごめん。何かお菓子買ってきてもらえる? しょっぱい系のスナックがいい”

 突然、暗雲が垂れこめてきた。いや、突然は嘘だ。ミサトは薄々気づいていた。それが駆け落ちで実体になり、無視できなくなっただけだ。

 セックスの後の心地よいまどろみを切り裂く着信音、楽しげに友達と話すトモヤの様子、そしてLINEのメッセージ。まだ若く遊びたい盛りの彼に、年上の恋人の存在は重荷にちがいない。ミサトは自分がセックスと恋愛ごっこ付きのお世話係のように思えてならなかった。

 彼は最初こそ戸惑っても、遠からずこの地域に溶け込むだろうとミサトは思った。彼は地元愛が強く、中学時代の友達と蜜につながりをもつ。彼も彼の友達も進学面では奮わず、ギリギリのところを渡り歩いてきた。出身こそアップタウンでも、彼のメンタリティや交遊のあり方はマイルドヤンキーに通じるものがあった。
 この地域に知り合いが増え、愛着が湧いてきたらどうだろうとミサトは案じた。週末は昼間から缶チューハイを飲み、酔った勢いでセックスをして、見るともなしにバラエティ番組を見て、飽きればモールに行って、ばったり会った知り合いに誘われて夕方から飲みにいく。そんな姿がありありと目に浮かんだ。ここで何年か暮らすのであれば、早く馴染んでほしいと思う半面、彼が完全に馴染んでしまうのも怖かった。

 またすれ違いざまに車の運転手がミサトを凝視した。見ないでよ。ミサトは内心つぶやき、思わずにらみ返した。

 
――仕事をすませたミサトの旦那は、取引先近くの喫茶店でひと息入れていた。しばらく表通りを漫然と眺めていたが、ふいにスマホのロックを解除してLINEを開いた。ミサトの欄をタップするも、自分が送ったメッセージへの既読サインはついていない。その前には2件の発信記録。いずれにも反応はなかった。

 平日は毎朝、身支度をすませて朝食をとる。その後、歯磨きを終えてリビングに入ってきた自分を見、あわてて弁当箱に蓋をしてランチバッグに入れるミサトを見守り、見送りのキスを受けて出勤する。結婚してこの朝の儀式がなかったのは、ミサトがインフルエンザで寝込んでいたときと、祖父の葬儀で実家に帰っていたとき、それに……と思い出して苦笑する。突然長野に旅立ったときだ。朝起きたら、ミサトの姿がなかった。家中探しても見当たらず、散歩に出ているのかと思ってメッセージを送ったら、あずさのなかだと返事があった。駅前を歩いていたら、長野に行きたくなってそのまま電車に乗ったのだという。その日の夕飯は、ミサトが土産に買ってきた蕎麦と山菜の天ぷらだった。

 知り合って8年、交際2年、結婚して2年。知り合いだった頃から、付き合っている人がいるのかと尋ねてもはぐらかされ、まともに答えてくれたことはなかった。結局、正式に交際を申し込むまで4年もかかった。ミサトがいう“友達”のなかに、ふつうと違う意味の友達が含まれていることは察せられた。そこに肉体関係があったかはわからない。束縛はしたくなかったし、誰を選ぶかはミサトに委ねたかった。ミサトが他の男を選んだら、潔く去ろう。その一方で、深く愛していても簡単に諦められるだろうかと自問することもあった。

 さて、コーヒーを飲み終わったし、そろそろ出るか。正面に向き直ったところで、旦那は目を疑った。ミサトが目の前を通り過ぎていったのだ。思わず身を乗り出し、ガラスをノックした。

 
――駅前商店街に着くころには、ミサトの後悔はより深い悔悟に成長していた。駆け落ちなんてするんじゃなかったかな。トモヤの青さゆえの激しさに身を焦がし、今度は青さゆえの浅はかさに身をやつしている。見た目に加齢の影響が出はじめて、若さと自由が恋しくなっただけなのかもしれない。予想より早く訪れたミドルエイジクライシス。そんな気がしなくもなかった。でも、年月は巻き戻せないという悲しい現実……あれ? いま何かをたたく音が聞こえた。
 音のしたほうを振り向くと、そこには唖然とした旦那の顔があった。旦那の顔は唖然としたまま固まっている。それ以上に唖然としたのはミサトのほうだ。このまま猛ダッシュで逃げたらどうだろう。それだと追われるだけだ。旦那の手招きに応じて、ミサトは喫茶店に入ることにした。

「なんでいるの?」。開口一番に旦那が言った。それはミサトも聞きたいところだったが、自分のほうが先に答える義務がありそうだと思った。でも、なんて答えるべきだろう。“駆け落ちしたから”が正確な答えだ。けれど、旦那は“なんで”と聞いている。もしかすると、手紙を読んでないんじゃないだろうか。
 ミサトは意を決して尋ねた。「手紙、読まなかった?」
「手紙って?」。旦那はアイスコーヒーを運んできたマスターに、そちらです、とミサトのほうに手を差し向けた。目はミサトに向けたままだ。

「ダイニングテーブルの上に置いたんだけど」と言いながら、ミサトはアイスコーヒーにミルクとシロップを注いだ。どう話を進めるべきか狼狽しているうちに、ミルクもシロップを全部入れてしまった。銀色の容器の側面に緊張した自分の顔が細長く映り込んでいる。
「え、そうだったの? 何も言わないでいなくなったと思ったから驚いたよ」。旦那は安堵したように頬をゆるめた。「今朝は寝坊してさ。寝室と洗面所を往復して、支度してすぐに出た。テーブルの上は見てない」
「そういえば、出張だって言ってたっけね」。コーヒーの味がしない、とミサトは思った。ミルクもシロップもなみなみと入れたのに。
「うん。長野のときみたいに急に旅に出たくなった?」と旦那はいたずらっぽく聞いた。「それとも、この前、たまには出張ついでに観光したいねって話したのを覚えてて、先回りして待ってたとか?」

 そうだった。苦手なボタン付けをしていて気もそぞろだったけど、確かそんな会話をかわした覚えがある。ミサトは向かい風が追い風に変わったと感じた。

「明け方に目が覚めて、考え事をしていたら、なんか急に旅に出たくなっちゃって。すぐに支度して駅まで行ったんだけど、そこで今日、あなたが出張だと思い出したんだよね。それで、どうせならって思って」
 ほとんどひと息だった。でも、次の関門が待ち受けていた。
「指輪、どうしたの?」。旦那が不可思議そうにミサトの手を見つめた。
「ハンドクリームを塗るときに外して忘れたみたい。たぶん、洗面所かテーブルの上にあるんじゃないかな」とミサトはうそぶいた。
「そっか。帰ったら、探さないとな」
「うん」
「しかしさ、LINEの返事もないし、どうしたかと思ったよ」
「ごめん。考え事したくて電源切ってた。通知や着信があると、つい応答しちゃうから」。ミサトは頭のどこかにある危機管理装置がフル稼働しているのを感じた。
「いや、別に責めてるわけじゃないんだ。心配だっただけで」

 彼が取引先との打ち合わせ中も気を揉んでいたというのに、私はそのあいだ、トモヤに抱かれていた。だけど、この事実は墓場まで持っていったほうがよさそうだとミサトは口をつぐんだ。

「じゃあ、この先は一緒にいられるんだ? 今日は金曜だろ、仕事も終わったし、帰りは日曜でもいいんだよな。帰りの切符を変更するか、いったんキャンセルさえすれば」
「そうする? 金沢あたりまで出てもいいよね。この町は商店街と田園風景でもう見尽くした感があるし、正直、あまり好きになれなくて」。ミサトはタクシーの運転手や道行く人の様子をかいつまんで話した。もちろん、同行者の存在を感じさせる要素は綺麗に省いて。

「たぶんさ」伸びかけた顎髭を親指でこすりながら考え込んでいた旦那がふいに口を開いた。「都会の人間って、目まぐるしく変わりゆくのが都市の宿命だとわかっているのに、街の歴史を刻んできた古いものが消えるとなると嘆かずにいられないだろ? それと同じように田舎にも、衰退と、モールに代表される画一的な発展、そして閉塞感が田舎の宿命だとわかりつつ、諦めきれずに苛立ちを募らせている人もいるんじゃないかな。都会の人は発展で失われるものに心を寄せ、田舎の人は衰退で失われるものに心を寄せる。だから、発展の象徴である東京から来た人間に、田舎にとっては当たり前のものを東京的な感覚で否定されたと感じて気を悪くしたんだと思うよ」

 旦那らしいとミサトは思った。関心が向く内容だと、突然スイッチが入ったように長広舌をふるう。若い男と駆け落ちしたはずなのに、相槌をうちながら、やや込み入った旦那の話を聞いている。ミサトは過疎がテーマの映画を見たあとに旦那とお茶をしているような錯覚に陥り、自分がもともと何の目的でこの町に来たのか忘れそうになった。

 旦那はグラスの水を飲み干すと、腕時計に目をやった。「そろそろ出る? 10分後に金沢行きの電車があるから。それだと、向こうで宿取って、荷物置いて、ちょうど晩メシの時間になるはず」
「その前にちょっとごめん」といってミサトは席を立った。ふだんと同じく旦那は笑顔で送り出す。

 “化粧室”のプレートを見つけ、そそくさと入り込む。1段高くなった和式だった。
 ドアのフックにバッグをかけ、スマホを取り出す。トモヤの欄をタップして、迷わずに文章を作成した。

“東京に帰ります。いろいろ考えた結果です。詳しくはまた連絡します。ごめんね”

 ブロックするか迷い、そこまでするのは忍びないと思って通知をオフにした。数時間後には、ワンセンテンスごとに送信された無数のメッセージを目にすることになるだろう。

 トイレを出ると、旦那は会計をすませて出入り口前で待っていた。またミサトを笑顔で出迎える。
 なぜ彼は泰然としているのだろう。もっと責めてほしかった。そうしないと日常に戻れない気がした。でも、何もかもぶちまけるわけにもいかなかった。勢いで駆け落ちしたけど、やっぱりあなたと一緒にいるのが正しいと思う、一緒にいたいと吐露したら、彼はどういう顔をするだろう。それをする勇気はミサトにはなかったし、彼を試す必要がないことも重々わかっていた。

 
 駅まで向かう道すがら、ミサトは旦那の腕に自分の腕をからめて寂れた商店街を歩いていく。和菓子屋に立ち寄り、桜色の練りきりを2つ買い、おまけで季節の野菜をかたどった干菓子をもらった。

 カウンター向こうの時計を見ると、電車の出発が迫っていた。
「電車の時間があるから急がないと」

 急かす役はいつもミサトだ。 旦那はミサトの手を取り、歩を早める。たぶん、旦那のいう“ピッタリ賞”はあながち間違いではないのだろうとミサトは思った。
 価値観を共有しあい、足りないものがあれば余分に持っている方が補う。苦手なものがあれば得意な方が手助けする。絵が得意な旦那は絵の断片を頼りにピースを探し、図形が得意なミサトは形を頼りにピースを探し、ふたりで選んだパズルを組み立てていく。そのパズルもまだ組み立てはじめたばかりだ。完成したところを見てみたいとミサトは思った。

 行きと帰りで同行者の違うミサトに駅員は目を丸くし、その後ろ姿をいつまでも見送っていた。
「あの駅員、ずっとミサトのことを見てたね。何かあった?」と旦那が笑った。
「さあ。ついたときにタクシー乗り場を聞いたから覚えてたんじゃない?」

 さて、あとは証拠隠滅を図らないと、とミサトは動き出した電車のなかで策を練りはじめた。駆け落ちに持ち出したキャリーバッグはもともとキャスターにガタがきていたから、処分したと言えばいい。自宅の最寄り駅についたら、おなかが痛いといって、ひと足先に家に戻ろう。途中で旦那におつかいを頼めば、置き手紙も、2日放置されて異臭を放つようになった弁当も処分できるはずだ。

「いい景色。この景色、一緒に見られてよかったな」と旦那が車窓に目を凝らす。波打つ海に太陽光が降りそそぎ、まばゆくきらめいていた。「心から愛せる人に出会えて、オレは本当にラッキーだったと思うよ」

 ミサトはうなずき、旦那の手の上に自分の手をそっと重ねた。きっと彼女は気づかないだろう。テーブルに置いた手紙の封が一度解かれていたことには。
 
    ◇◇◇

連作続編「駆け落ちはしたけれど――ミサト、35歳の場合――

オムニバス2作目「駆け落ちはしたけれど――ユウト、25歳の場合――

 誘いを断った元担任にアウティングされ、田舎でくすぶってたユウト。恋人のシゲキと田舎から逃げ出し、東京で待っていたのは――。家族の形、介護、引きこもり、出会い、別れ。ゲイの青年、ユウトのサクセスストーリー。
 

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