Eu e Você~想いあふれて~

 
 どこの街にも正体不明の謎深い人はいる。いわゆる、“ヘンな人”だ。ヘンな人は単に個性的な人である場合もあるし、何らかの精神疾患を抱えている場合もある。後者で重篤な問題を抱えているにもかかわらず、見過ごされている場合には福祉につなぐなどの手助けが必要だが、たまに見かける程度の“ヘンな人”に偏執的な関心をもつ人は多くない。たいていは関わりを避け、適度な距離を保って暮らす。それでも、彼らは前衛的な画家が巨大なカンバスにぶちまけるビビッドな絵の具のように突然差し色として街角に姿をあらわすのだ。

 そういう意味では彼もまた差し色で、当初はよくいる“ヘンな人”のひとりだと思っていた。

 彼の存在に気づいたのは、12月の寒い朝だった。吐く息は白く、足もとから忍び寄る寒さに思わず早足になる。散歩をすませて自宅マンションに戻ると、見慣れないブルーの乗用車がとまっていた。暖をとるためなのか、アイドリング状態で、マンションのエントランスからほんの少しずれた位置に停車していた。正面玄関は目と鼻の先で、住人としては、知らない人の視線を感じながらオートロックを開錠するのは気持ちがいいものではない。さりげなく一瞥すると、60代にも70代にも見える彼は朗らかな笑みをうかべ、人待ち顔で運転席に座っていた。

 一度目は誰かを迎えに来たのだろうと気にとめなかった。しかし、乗用車は週に二度、三度、と高い頻度で姿をあらわすようになった。1時間以上停車し、しばらくすると誰を乗せるわけでもなく走り去っていく。最初は、住人の父親で多忙な子供を会社まで送迎しているのだろうか、あるいは路地奥の一軒家に孫がいて学校まで送っていっているのだろうか、と想像をめぐらした。けれど、それにしては停車時間が長すぎるし、姿をみせる時間も早朝や夕方とばらつきがあった。

 マンション前に長時間停車されるのも不安で、警察に通報して対応を頼んだこともあった。そのたびに警官がやってきて車両を移動するよう促したが、また幾日かすると彼は姿をあらわし、朗らかな笑みをうかべて正面を見据えていた。

 
 ある日、彼の姿を目にしても何も感じなくなっている自分に気づいた。別に実害があるわけではないし、放っておいてもいいのではないか。空き巣の下見にしては念入りすぎるし、ストーカーや性犯罪者にしては温和で、マンションに立ち入ることはおろか、車から表に出る様子すらない。しかし、いつまでも街角の差し色として見過ごすわけにもいかなかった。いまは朗らかでも、突然、凶暴化する可能性もあるのだ。迷ったすえ、最後のつもりで警察に通報することにした。

 最後の通報時には、それまでとふたつ違う点があった。ひとつは、駆けつけた警官が車両の移動を促すだけでなく、なぜいつもマンション前に停車しているのか微にいり細をうがって尋問したこと。もうひとつは、私が道路側の窓を細く開けて、彼と警官のやりとりを聞けるようにしたことだ。

 彼は警官の質問に対し、昭和ひとケタの誕生日を告げた。なぜいつも停車しているのかという質問には「姉にカネを持ってきた」と答え、「姉は2階に住んでる」と言葉をついだ。2階には彼の姉に相当する年齢の女性は住んでいない。そもそも、うちのマンションに高齢者は住んでいない。それでも、「いつもここで待ってると、姉が出てくる」といって彼は譲らない。

 嘘をついているようには聞こえないが、会話がちぐはぐでかみ合っていなかった。彼の時系列は複雑に入り乱れ、過去完了の出来事があたかも現在進行形の出来事のように感じられるだけなのだ。彼は、“認知”に問題を抱える老人だった。

 でも、もし彼の言っていることが事実で、単に時間軸が過去になっているだけだとしたらどうだろう。漏れ聞こえてくる彼と警官の話を聞きながら、ふと思った。このマンションが建つ何十年も前には2階建てのアパートが建っていて、彼のお姉さんが実際に住んでいたのだとしたら――。

   ◇ ◇ ◇

 ――やっぱり、明かりがついている。

 シゲオはトラックの運転席から、マンションを見上げた。銭湯にでも行っているのかもしれない。さすがに銭湯に行くぐらいのカネは残っていたのだろう、と彼は心得た様子でうなずいた。

「カネを貸してほしい」と、姉貴から電話がかかってきたのは今日の昼休みだった。職場に電話がかかってくると、近くの事務員に話を聞かれていそうで気が気じゃないが、姉貴も俺も家に電話を引くようなカネはない。同僚の飛田なんざ、事務所の電話をこっそり拝借し、青森の実家に遠距離電話をかけている。それに比べたら、俺はまだかわいいもんだ。「山根くん、お姉さんからお電話よ」と事務員に呼び出されるのはばつが悪いが、私用電話じたいは別にめずらしくなかった。

 俺の親父とお袋は3月10日の東京大空襲で死んだ。人ごみと火の海のなか、親父とお袋が先導するように前を走り、姉貴と俺がつづいたが、曲がり角まで来たところで親父とお袋を見失った。それが親父とお袋を見た最後だった。姉貴と俺は風上の小学校まで逃げ、どうにか命拾いした。つぎの日の朝、表に出てみると、あたりは一面焼け野原で、瓦礫と化した家々はくすぶりつづけ、そこらじゅうに黒こげの死体が転がっていた。生き残ったやつらは途方にくれた顔つきで焼け跡に立ちつくし、“我が家”の残骸からまだ使えそうなものを拾い集めていた。

 俺はあちこちの避難場所を駆けずりまわって親父とお袋を探した。似た人を見たと聞けば、遠く離れた町でも駆けつけ、その道中もそうでないよう願いながら黒こげの死体を確認してまわった。だが、ついぞ親父とお袋は見つからなかった。昭和20年3月10日付で死亡認定が下り、墓石にはふたりの名前とその日付が刻まれることとなった。

 親父とお袋が死んでから、姉貴と俺は手と手を取り合って生きてきた。だれにも話す気になれない過去だ。戦災孤児と呼ばれるのも、蔑まれるのも、憐れまれるのも嫌だった。
 引き取られた叔父夫婦には厄介がられ、遠慮しいしい飯を食ったせいでやせ細り、背もあまり伸びなかった。姉貴と俺は叔父のところで畑仕事を手伝っていたが、奴隷のような扱いと折檻に耐えかねて東京に逃げ戻った。何の当てもなかったが、もう我慢の限界だった。ほどなく姉貴は山の手の印刷工場に職を見つけ、俺は下町の工場で溶接の仕事についた。

 女の姉貴は給料が悪く、俺以上にカツカツの暮らしだ。金のいい仕事を求めて職安にいったら、嫌味な男に下から上まで値踏みするように見られたあげく、「これ以上稼ぎたかったら、特飲街にでも行くことだね」と追い返されたと唇を噛みしめていた。「そんな真似、俺がさせない」となだめてやったのが悪かったのか、以来、ことあるごとに頼られるようになった。

 高台には大手の出版社のほか、戸建てやアパートが立ちならび、坂下には印刷工場や戸建てやアパートが立ちならんでいる。どっちも似たようなもんだが、高台と坂下の違いは建物の大きさだ。高台にはわりかし大きいものが、坂下にはわりかし小さいものが建つ。どこの町もこの景色は変わらない。
 姉貴の住むアパートは職場が借り上げたもので、なぜか工場から少し離れた高台に建っている。工場の社長とアパートの大家が知り合いだからだというが、姉貴にいわせれば、その大家とは社長が昔入れあげていた芸者らしい。芸者をやめても食うに困らないようにアパートを建ててやったって話だ。大家は暇つぶしに三味線を教えていて、たまにアパートと隣り合わせに建った2階屋から三味線をかき鳴らす音が聞こえてくる。

 今日も三味線の音を聞きながら待つことになりそうだ、と俺は思った。姉貴は出てくるまでに時間がかかる。アパートの前に着くとクラクションを鳴らして合図をするが、10分待つのは常だ。トラックのドアには勤め先の工場の名前が入っている。手持ちぶさたの俺は、運転席からその黒文字を指先でなぞった。

 しばらくすると、姉貴が申し訳なさそうに両手をすり合わせながら出てきた。俺は額に手をあてて敬礼し、トラックからさっと下りた。
「ごめん、シゲオ。待たせちゃって」
 いつものことだろ、と俺は内心苦笑した。
「これ」
 俺がカネの入った茶封筒を渡すと、姉貴はそれを押しいただいた。
「いつもごめんね。給料が入ったら、すぐ返すから」
 そう伏し目がちにいう姉貴の声色から、またあの男に貢いでいるんだろうと察した。特攻崩れから、盗品も扱うようなガラクタ売りになったあの男。無頼気取りでいけ好かないやつだ。でも、それを姉にいうと、決まって顔をしかめる。別れるよう忠告したときは、ふた月も口を利いてくれなかった。以来、やつのことは禁句だ。

「変わりない?」
「ないもなにも、先々週も会ったばかりじゃない」
 そうだ。あの野郎が博打でもうけたといって、寿司を馳走してくれたんだった。嫌なことを思い出しちまった。頭では、寿司桶をひっくり返してやろうと思っていたが、いざ姉貴の部屋で桶いっぱいに詰まった寿司を前にすると、ろくなものを食ってない俺は拒めなかった。ひとつつまんではまたひとつと、やつを睨み睨み、口に押し込んでいった。

 姉貴も俺もうつむき、黙り込んだ。数秒の沈黙。オート三輪が向こうから走ってくるのが見えた。潮時だ。
「じゃあ、また」
 俺は軽く手をあげ、小走りにトラックに乗り込んだ。バックミラーに姉貴の姿が映る。いつも名残惜しそうな、心細そうな顔をしているが、トラックが曲がり角にさしかかると、やれやれという顔つきでアパートに入り、たたきで足をぶらぶら交互に振って下駄を脱ぐのだ。何に対するやれやれなのだろう。俺らの境遇だろうか、それとも自分の人生だろうか。ずっと気になっているが、いまだ聞けずにいた。

   ◇ ◇ ◇

 “もはや戦後ではない”だと。笑わせてくれる。貧乏暮らしなのは相変わらずだ。俺だけでなく、工場のやつらも、姉貴もみんなカツカツだ。でも、ボーナスが入ったところをみると、工場の景気は悪くないらしい。俺は忍び笑いをもらした。今日は姉貴にうまいもんをおごってやろう。天ぷらかとんかつがいいな。

 姉貴のアパートの前で、クラクションをひとつ鳴らして合図を送る。姉貴はいるはずだ。部屋の電気もついてる。なのに、出てこない。どこに行ったんだ。

――窓をたたく音に振り返ると、若い警官が立っていた。「ちょっと、いいですか?」とくぐもった声とともに、警官は窓を開けるようジェスチャーで示した。ここはおとなしく従ったほうがよさそうだ。

「免許証を見せてもらえますか?」

 窓を開けるやいなや、警官は疑り深い目つきで俺の顔をのぞきこんだ。ぶしつけなやつだ。ポリ公は作業着姿の若い男を見ちゃ疑ってかかる。俺はじろりとにらみ返した。

 しかし、警官の目には柔和な顔つきの老人が映っていた。ニコニコして免許証を探すそぶりも見せない。警官は眉をひそめた。二、三度、提示を求めて、ようやく老人は財布から免許証を取り出した。
 警官は免許証を確認し、返却しながら質した。「ここで何してるんですか?」
「姉にカネを持ってきたんです。ひとりで暮らしてるから」

 そうだ、俺は姉貴にカネを持ってきたんだ。

「お姉さん? 何階に住んでるの?」
「2階。2階の右端」

 そういって、俺はアパートを見上げた。2階? 2階にしてはずいぶん高く感じる。2階建てのアパートだったよな。

「2階の右端ですね?」というと、警官はエントランスの風よけ室に入った。銀盤の数字を押して部屋番号を入力し、“呼出”ボタンに指をのせる。ややあって、相手の声が聞こえた。
「はい」
「夜分にすみません。警察の者です。あのそちらに、山根さんとおっしゃる方はお住まいですか?」
「いえ、うちは松永ですけど」と女が当惑気味に応じた。
「失礼しました。では、このマンションに……といっても、ほかの住人の方のことはわからないかもしれませんけど、高齢の女性ってお住まいですかね? おひとりで暮らしてるような」
「どうでしょう。ご高齢の方はお見かけしないですね。それ以上のことはちょっとわかりかねます」
「はあ、そうですか。ご協力ありがとうございました」
 警官は小首をかしげ、エントランスから表に出た。相変わらず老人は正面を見つめて微笑んでいた。警官は腰をかがめ、運転席の老人に話しかけた。
「お姉さん、住んでないって」

 姉貴? 姉貴がどうしたって? 姉貴は結婚して、練馬に住んでるんだ。

「姉は練馬に住んでる」
「へ? お姉さん、ここに住んでるんじゃなかったの? 練馬?」

 この若造はなにいってるんだ。姉貴は子どもも大きくなって、だんなも死んで、いまは……あれ、あねきはどうしたんだろう。あねきはどこにいったんだ。

「しんいち、おかあさんはどこにいった?」

 警官は眉をひそめ、やがてことの次第を理解したようにため息をついた。認知症、か。「お姉さん、ここに住んでないみたいですよ。さっき聞いた、ご自宅の番号に電話しましょうか? おうちの人に迎えにきてもらったほうがいいんじゃないですか?」

 おうちのひとってだれのことだ。かぞくはあねきしかいない……ああ、うちにかえったら、あねきがまってるのか。

「大丈夫? ひとりで帰れますか?」
 老人は朗らかに笑みをうかべ、こくりとうなずいた。
「あのね、近隣の方から何度か通報が入ってるので、もうここに車止めないでくださいね」

 ここにとらっくをとめられないんじゃしょうがないな。かどにとめて、あねきにあるいてきてもらうしか……あれ、あねきはどこにいったんだ? あねき、なんでそうしきのしゃしんになってるんだ?

「もう一度言いますけど、お姉さん、ここに住んでないみたいですからね。気をつけて帰ってくださいね」

 ああ、そうか。うちでまってるのか。かえりに、いなりずしでもかってってやろう。

 
 警官は走り去るブルーの乗用車を見送りながら、思ったより運転がうまいな、と妙なところで感心していた。でも、ひとりで帰らせて大丈夫だっただろうか。まあ、いい。オレの任務は終了だ。

 警官は自転車にまたがり、無線機をとって連絡を入れた。そして、もう一度マンションを見上げると、肩をすくめてペダルをこぎはじめたのだった。
 

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