Eu e Você~想いあふれて~

 
 どこの街にも正体不明の謎深い人はいる。いわゆる、“ヘンな人”だ。ヘンな人は単に個性的な人である場合もあるし、何らかの精神疾患を抱えている場合もある。後者で重篤な問題を抱えているにもかかわらず、見過ごされている場合には福祉につなぐなどの手助けが必要だが、たまに見かける程度の“ヘンな人”に偏執的な関心をもつ人は多くない。たいていは関わりを避け、適度な距離を保って暮らす。それでも、彼らは前衛的な画家が巨大なカンバスにぶちまけるビビッドな絵の具のように突然差し色として街角に姿をあらわすのだ。

 そういう意味では彼もまた差し色で、当初はよくいる“ヘンな人”のひとりだと思っていた。

 彼の存在に気づいたのは、12月の寒い朝だった。吐く息は白く、足もとから忍び寄る寒さに思わず早足になる。散歩をすませて自宅マンションに戻ると、見慣れないブルーの乗用車がとまっていた。暖をとるためなのか、アイドリング状態で、マンションのエントランスからほんの少しずれた位置に停車していた。正面玄関は目と鼻の先で、住人としては、知らない人の視線を感じながらオートロックを開錠するのは気持ちがいいものではない。さりげなく一瞥すると、60代にも70代にも見える彼は朗らかな笑みをうかべ、人待ち顔で運転席に座っていた。

 一度目は誰かを迎えに来たのだろうと気にとめなかった。しかし、乗用車は週に二度、三度、と高い頻度で姿をあらわすようになった。1時間以上停車し、しばらくすると誰を乗せるわけでもなく走り去っていく。最初は、住人の父親で多忙な子供を会社まで送迎しているのだろうか、あるいは路地奥の一軒家に孫がいて学校まで送っていっているのだろうか、と想像をめぐらした。けれど、それにしては停車時間が長すぎるし、姿をみせる時間も早朝や夕方とばらつきがあった。

 マンション前に長時間停車されるのも不安で、警察に通報して対応を頼んだこともあった。そのたびに警官がやってきて車両を移動するよう促したが、また幾日かすると彼は姿をあらわし、朗らかな笑みをうかべて正面を見据えていた。

 
 ある日、彼の姿を目にしても何も感じなくなっている自分に気づいた。別に実害があるわけではないし、放っておいてもいいのではないか。空き巣の下見にしては念入りすぎるし、ストーカーや性犯罪者にしては温和で、マンションに立ち入ることはおろか、車から表に出る様子すらない。しかし、いつまでも街角の差し色として見過ごすわけにもいかなかった。いまは朗らかでも、突然、凶暴化する可能性もあるのだ。迷ったすえ、最後のつもりで警察に通報することにした。

 最後の通報時には、それまでとふたつ違う点があった。ひとつは、駆けつけた警官が車両の移動を促すだけでなく、なぜいつもマンション前に停車しているのか微にいり細をうがって尋問したこと。もうひとつは、私が道路側の窓を細く開けて、彼と警官のやりとりを聞けるようにしたことだ。

 彼は警官の質問に対し、昭和ひとケタの誕生日を告げた。なぜいつも停車しているのかという質問には「姉にカネを持ってきた」と答え、「姉は2階に住んでる」と言葉をついだ。2階には彼の姉に相当する年齢の女性は住んでいない。そもそも、うちのマンションに高齢者は住んでいない。それでも、「いつもここで待ってると、姉が出てくる」といって彼は譲らない。

 嘘をついているようには聞こえないが、会話がちぐはぐでかみ合っていなかった。彼の時系列は複雑に入り乱れ、過去完了の出来事があたかも現在進行形の出来事のように感じられるだけなのだ。彼は、“認知”に問題を抱える老人だった。

 でも、もし彼の言っていることが事実で、単に時間軸が過去になっているだけだとしたらどうだろう。漏れ聞こえてくる彼と警官の話を聞きながら、ふと思った。このマンションが建つ何十年も前には2階建てのアパートが建っていて、彼のお姉さんが実際に住んでいたのだとしたら――。

   ◇ ◇ ◇

 ――やっぱり、明かりがついている。

 シゲオはトラックの運転席から、マンションを見上げた。銭湯にでも行っているのかもしれない。さすがに銭湯に行くぐらいのカネは残っていたのだろう、と彼は心得た様子でうなずいた。

「カネを貸してほしい」と、姉貴から電話がかかってきたのは今日の昼休みだった。職場に電話がかかってくると、近くの事務員に話を聞かれていそうで気が気じゃないが、姉貴も俺も家に電話を引くようなカネはない。同僚の飛田なんざ、事務所の電話をこっそり拝借し、青森の実家に遠距離電話をかけている。それに比べたら、俺はまだかわいいもんだ。「山根くん、お姉さんからお電話よ」と事務員に呼び出されるのはばつが悪いが、私用電話じたいは別にめずらしくなかった。

 俺の親父とお袋は3月10日の東京大空襲で死んだ。人ごみと火の海のなか、親父とお袋が先導するように前を走り、姉貴と俺がつづいたが、曲がり角まで来たところで親父とお袋を見失った。それが親父とお袋を見た最後だった。姉貴と俺は風上の小学校まで逃げ、どうにか命拾いした。つぎの日の朝、表に出てみると、あたりは一面焼け野原で、瓦礫と化した家々はくすぶりつづけ、そこらじゅうに黒こげの死体が転がっていた。生き残ったやつらは途方にくれた顔つきで焼け跡に立ちつくし、“我が家”の残骸からまだ使えそうなものを拾い集めていた。

 俺はあちこちの避難場所を駆けずりまわって親父とお袋を探した。似た人を見たと聞けば、遠く離れた町でも駆けつけ、その道中もそうでないよう願いながら黒こげの死体を確認してまわった。だが、ついぞ親父とお袋は見つからなかった。昭和20年3月10日付で死亡認定が下り、墓石にはふたりの名前とその日付が刻まれることとなった。

 親父とお袋が死んでから、姉貴と俺は手と手を取り合って生きてきた。だれにも話す気になれない過去だ。戦災孤児と呼ばれるのも、蔑まれるのも、憐れまれるのも嫌だった。
 引き取られた叔父夫婦には厄介がられ、遠慮しいしい飯を食ったせいでやせ細り、背もあまり伸びなかった。姉貴と俺は叔父のところで畑仕事を手伝っていたが、奴隷のような扱いと折檻に耐えかねて東京に逃げ戻った。何の当てもなかったが、もう我慢の限界だった。ほどなく姉貴は山の手の印刷工場に職を見つけ、俺は下町の工場で溶接の仕事についた。

 女の姉貴は給料が悪く、俺以上にカツカツの暮らしだ。金のいい仕事を求めて職安にいったら、嫌味な男に下から上まで値踏みするように見られたあげく、「これ以上稼ぎたかったら、特飲街にでも行くことだね」と追い返されたと唇を噛みしめていた。「そんな真似、俺がさせない」となだめてやったのが悪かったのか、以来、ことあるごとに頼られるようになった。

 高台には大手の出版社のほか、戸建てやアパートが立ちならび、坂下には印刷工場や戸建てやアパートが立ちならんでいる。どっちも似たようなもんだが、高台と坂下の違いは建物の大きさだ。高台にはわりかし大きいものが、坂下にはわりかし小さいものが建つ。どこの町もこの景色は変わらない。
 姉貴の住むアパートは職場が借り上げたもので、なぜか工場から少し離れた高台に建っている。工場の社長とアパートの大家が知り合いだからだというが、姉貴にいわせれば、その大家とは社長が昔入れあげていた芸者らしい。芸者をやめても食うに困らないようにアパートを建ててやったって話だ。大家は暇つぶしに三味線を教えていて、たまにアパートと隣り合わせに建った2階屋から三味線をかき鳴らす音が聞こえてくる。

 今日も三味線の音を聞きながら待つことになりそうだ、と俺は思った。姉貴は出てくるまでに時間がかかる。アパートの前に着くとクラクションを鳴らして合図をするが、10分待つのは常だ。トラックのドアには勤め先の工場の名前が入っている。手持ちぶさたの俺は、運転席からその黒文字を指先でなぞった。

 しばらくすると、姉貴が申し訳なさそうに両手をすり合わせながら出てきた。俺は額に手をあてて敬礼し、トラックからさっと下りた。
「ごめん、シゲオ。待たせちゃって」
 いつものことだろ、と俺は内心苦笑した。
「これ」
 俺がカネの入った茶封筒を渡すと、姉貴はそれを押しいただいた。
「いつもごめんね。給料が入ったら、すぐ返すから」
 そう伏し目がちにいう姉貴の声色から、またあの男に貢いでいるんだろうと察した。特攻崩れから、盗品も扱うようなガラクタ売りになったあの男。無頼気取りでいけ好かないやつだ。でも、それを姉にいうと、決まって顔をしかめる。別れるよう忠告したときは、ふた月も口を利いてくれなかった。以来、やつのことは禁句だ。

「変わりない?」
「ないもなにも、先々週も会ったばかりじゃない」
 そうだ。あの野郎が博打でもうけたといって、寿司を馳走してくれたんだった。嫌なことを思い出しちまった。頭では、寿司桶をひっくり返してやろうと思っていたが、いざ姉貴の部屋で桶いっぱいに詰まった寿司を前にすると、ろくなものを食ってない俺は拒めなかった。ひとつつまんではまたひとつと、やつを睨み睨み、口に押し込んでいった。

 姉貴も俺もうつむき、黙り込んだ。数秒の沈黙。オート三輪が向こうから走ってくるのが見えた。潮時だ。
「じゃあ、また」
 俺は軽く手をあげ、小走りにトラックに乗り込んだ。バックミラーに姉貴の姿が映る。いつも名残惜しそうな、心細そうな顔をしているが、トラックが曲がり角にさしかかると、やれやれという顔つきでアパートに入り、たたきで足をぶらぶら交互に振って下駄を脱ぐのだ。何に対するやれやれなのだろう。俺らの境遇だろうか、それとも自分の人生だろうか。ずっと気になっているが、いまだ聞けずにいた。

   ◇ ◇ ◇

 “もはや戦後ではない”だと。笑わせてくれる。貧乏暮らしなのは相変わらずだ。俺だけでなく、工場のやつらも、姉貴もみんなカツカツだ。でも、ボーナスが入ったところをみると、工場の景気は悪くないらしい。俺は忍び笑いをもらした。今日は姉貴にうまいもんをおごってやろう。天ぷらかとんかつがいいな。

 姉貴のアパートの前で、クラクションをひとつ鳴らして合図を送る。姉貴はいるはずだ。部屋の電気もついてる。なのに、出てこない。どこに行ったんだ。

――窓をたたく音に振り返ると、若い警官が立っていた。「ちょっと、いいですか?」とくぐもった声とともに、警官は窓を開けるようジェスチャーで示した。ここはおとなしく従ったほうがよさそうだ。

「免許証を見せてもらえますか?」

 窓を開けるやいなや、警官は疑り深い目つきで俺の顔をのぞきこんだ。ぶしつけなやつだ。ポリ公は作業着姿の若い男を見ちゃ疑ってかかる。俺はじろりとにらみ返した。

 しかし、警官の目には柔和な顔つきの老人が映っていた。ニコニコして免許証を探すそぶりも見せない。警官は眉をひそめた。二、三度、提示を求めて、ようやく老人は財布から免許証を取り出した。
 警官は免許証を確認し、返却しながら質した。「ここで何してるんですか?」
「姉にカネを持ってきたんです。ひとりで暮らしてるから」

 そうだ、俺は姉貴にカネを持ってきたんだ。

「お姉さん? 何階に住んでるの?」
「2階。2階の右端」

 そういって、俺はアパートを見上げた。2階? 2階にしてはずいぶん高く感じる。2階建てのアパートだったよな。

「2階の右端ですね?」というと、警官はエントランスの風よけ室に入った。銀盤の数字を押して部屋番号を入力し、“呼出”ボタンに指をのせる。ややあって、相手の声が聞こえた。
「はい」
「夜分にすみません。警察の者です。あのそちらに、山根さんとおっしゃる方はお住まいですか?」
「いえ、うちは松永ですけど」と女が当惑気味に応じた。
「失礼しました。では、このマンションに……といっても、ほかの住人の方のことはわからないかもしれませんけど、高齢の女性ってお住まいですかね? おひとりで暮らしてるような」
「どうでしょう。ご高齢の方はお見かけしないですね。それ以上のことはちょっとわかりかねます」
「はあ、そうですか。ご協力ありがとうございました」
 警官は小首をかしげ、エントランスから表に出た。相変わらず老人は正面を見つめて微笑んでいた。警官は腰をかがめ、運転席の老人に話しかけた。
「お姉さん、住んでないって」

 姉貴? 姉貴がどうしたって? 姉貴は結婚して、練馬に住んでるんだ。

「姉は練馬に住んでる」
「へ? お姉さん、ここに住んでるんじゃなかったの? 練馬?」

 この若造はなにいってるんだ。姉貴は子どもも大きくなって、だんなも死んで、いまは……あれ、あねきはどうしたんだろう。あねきはどこにいったんだ。

「しんいち、おかあさんはどこにいった?」

 警官は眉をひそめ、やがてことの次第を理解したようにため息をついた。認知症、か。「お姉さん、ここに住んでないみたいですよ。さっき聞いた、ご自宅の番号に電話しましょうか? おうちの人に迎えにきてもらったほうがいいんじゃないですか?」

 おうちのひとってだれのことだ。かぞくはあねきしかいない……ああ、うちにかえったら、あねきがまってるのか。

「大丈夫? ひとりで帰れますか?」
 老人は朗らかに笑みをうかべ、こくりとうなずいた。
「あのね、近隣の方から何度か通報が入ってるので、もうここに車止めないでくださいね」

 ここにとらっくをとめられないんじゃしょうがないな。かどにとめて、あねきにあるいてきてもらうしか……あれ、あねきはどこにいったんだ? あねき、なんでそうしきのしゃしんになってるんだ?

「もう一度言いますけど、お姉さん、ここに住んでないみたいですからね。気をつけて帰ってくださいね」

 ああ、そうか。うちでまってるのか。かえりに、いなりずしでもかってってやろう。

 
 警官は走り去るブルーの乗用車を見送りながら、思ったより運転がうまいな、と妙なところで感心していた。でも、ひとりで帰らせて大丈夫だっただろうか。まあ、いい。オレの任務は終了だ。

 警官は自転車にまたがり、無線機をとって連絡を入れた。そして、もう一度マンションを見上げると、肩をすくめてペダルをこぎはじめたのだった。
 

駆け落ちはしたけれど――ミサト、35歳の場合――

連作前編「駆け落ちはしたけれど――ミサト、34歳の場合――

 
 愛している、束縛されているわけでもない。でも、逃れたくてしょうがない――。

    ◇ ◇ ◇
 
「――ごめん、そろそろ起きるわ」

 トモヤはベッドから抜けだし、床に脱ぎ捨てたボクサーブリーフを拾い上げた。いったんベッドサイドに腰かけ、両足を一気に通してからすっくと立ち上がる。すぐシャワーを浴びるのに、下着をはかずに部屋を出るのは落ち着かないらしい。引き締まったいい体。ミサトは、ドアをすり抜けていくその後ろ姿を惚れ惚れと見送った。
 私もそろそろ起きないと、とミサトは上半身を起こして伸びをする。トモヤと同じく床に脱ぎ捨てたブラキャミソールとショートパンツを身につけ、キッチンに向かった。

 トモヤと一緒に暮らしはじめて2ヶ月が過ぎた。トモヤの父親が“東京離脱”を宣言し、母親ともども房総の別荘に移り住んだのだ。もともとデザイン関係の事業を営んでいた彼の父親は、ふだんは房総に暮らし、必要なときだけ東京に出てくるライフスタイルに切り替えた。その別荘も、もとをたどれば、トモヤの亡くなった祖父母の家で、しばらく空き家になっていたという。そこでチャンス到来とばかりに、トモヤはミサトに連絡をよこしたのだった。

 たった1日の“駆け落ち”から逃げ出したあと、ミサトは何事もなかったかのように旦那との日常に戻った。平日は旦那より10分だけ早起きし、お弁当をつくるかたわら朝食の支度をし、儀礼的に何度かキスをかわして送り出し、洗濯物がたまっているときは洗濯を、埃が気になるときは掃除をする。食材や日用品が不足していれば、夕方までに近所のスーパーに行くか、ネットスーパーなどで買いたす。水まわりの掃除と食器洗いは旦那の仕事だ。フリーでやっている仕事のために、パソコンの前に座るのは週に2度ほど。“礼儀正しい”旦那との夫婦生活と同じ回数だった。

 単調で安穏とした日々は、まるで健康な人の心電図のように規則正しい起伏を描いて流れていく。その規則正しい起伏はときに安堵を、ときに虚無をもたらす。幸福ゆえの物憂さにうんざりし、自由と孤独がもたらす躍動感に思いをはせる。それも旦那が帰ってくるころには鳴りをひそめ、また旦那が出勤してしばらくたつと沸々とこみ上げてくるのだった。

 情熱と刺激がほしい――。

 かつてはすぐそばにあった情熱と刺激が蜃気楼のようにかすんで見える。音楽や映画から昔の出来事を思い出し、過ぎ去りしものたちに懐古の涙を流すこともなくなった。ミサトはただただ情熱に飢えていた。

 
 そんなある日、ミサトのもとにトモヤからLINEが入った。

“いろいろあって、東京に帰ってきました。よかったら、近々お茶しない?”

 するならする、しないならしないで返事をすればいい。そのどちらも難しいなら、ブロックすればいい。そう、ミサトにはわかっていた。このメッセージに返信したら、きっとまた抗えなくなる。安穏とした日常から逃げ出す誘惑に。

 1週間、ミサトは誘惑に抗いつづけた。そして、1週間と5時間30分後、ミサトは誘惑に負けた。

“返事、遅くなってごめん。そうだね。近々お茶しましょう。”

 トモヤが指定したのは、新宿にある喫茶店“ルノアール”だった。世田谷ののどかな住宅街で育った彼にとって、新宿はアウェーだった。「新宿はごちゃごちゃしていて好きじゃない」と渋谷を好んだ。ミサトにとっては、新宿も渋谷も猥雑な雰囲気に変わりはないように思えたが、いつもトモヤは勝手知ったる渋谷で会うことを望んだ。しかし、この日にかぎってトモヤが指定したのは新宿のルノアール。忘れもしない。ミサトとトモヤが初めて出会った場所だった。

 あの日と同じ席にトモヤは腰かけていた。ビジネス客が大半を占めるなか、ひとりだけオレンジ色のTシャツを着てオレンジジュースを飲んでいた高校生はもういない。入り口の人の気配に気づいたトモヤは、スマホから視線を上げ、ミサトに軽く手を振ってみせた。

「見違えちゃった。今日はオレンジ色のTシャツじゃないんだ」
「そうそう。あれから5年たって、オレも社会人だからね。スーツ着てんの。まだ見たことなかったっけ?」というと、トモヤは薄笑いをうかべ、上目遣いにミサトを見据えた。「なにも言わないで東京に帰っちゃうんだもん。びっくりだよ」 
「駅前で出張中の旦那に会っちゃったし、帰らないわけにいかなかったんだよ」
「妻の駆け落ち先に旦那が出張って、超ドラマチックだ」
 感動気味に語るトモヤ、相変わらずピントがずれているとミサトは思った。駆け落ちから戻ってLINEで報告したときも、彼は同じように感動していたのだった。

「ということで、いったん東京に戻ることにしたの。ごめんね」
「オレ、これでもちょっと傷ついたんだけどね」とミサトを一瞥すると、トモヤはガムシロップを2つ入れたアイス・ラテをすすった。「あれからどうした?」
「元の生活に戻っただけ。旦那の世話をして、ちょっと仕事をして、単調な日々を過ごしてる。長旅に出ようかと思って、スマホで長野の奈良井の情報を調べてたら、旦那が背後からのぞき込んで、『今度の休み、一緒に行く?』って聞いてきて隠遁計画はまた立ち消えになった」
「思うんだけど、なんでいつも長野に逃げようとするの?」
「なんでだろ。なんか、“それっぽい”でしょ」
 納得したのかどうか、トモヤは両眉をあげて口をとがらせ、小刻みにうなずいた。 
「そういうトモヤはあれからどうしたの?」とミサトは水を向けた。就職した会社もあの田舎町も会わなくて、東京に戻ってきたところまでは聞いていた。
「いまは不動産会社に勤めてる。高級物件ばっか扱ってるところだから、ちょっと目が肥えた」と彼はちょっと誇らしげに語った。「そうそう、いまオレ、実家でひとり暮らしって言ったっけ?」
「え? 聞いてないよ」
「父親と母親がね、房総に引っ越しちゃったんだよね。で、3LDKにひとり暮らしってわけ」
「へえ、そうなんだ」。ミサトは一度だけ遊びに行ったことのあるトモヤの実家を思い浮かべた。等々力渓谷に近い、薄茶色のマンションだったはずだ。
「さてさて、ミサトさん。ここからが今日の本題です」というと、トモヤは大袈裟に居ずまいを正した。「駆け落ちは失敗に終わりました。そこで、仕切なおしとして、オレと一緒に住みませんか?」
 これにはミサト自身驚いたが、何のためらいもなく、トモヤの誘いに応じていたのだった。

 
“しばらく旅に出ます。また落ち着いたら連絡します。”

 そんな置き手紙をし、ミサトは必要最低限のものだけをスーツケースに詰め込んでトモヤの家に移り住んだ。

 ミサトがもっとも心配したのは、トモヤの世話係になることだったが、意外や意外、これは杞憂に終わった。ずっと親元で暮らしてきた彼は家事が苦手だろうとミサトは睨んでいたが、料理以外のことはひととおりできるようだった。交友関係が広く、仕事上のつきあいもあり、トモヤが家で夕食をとるのは週に4日か5日。これはミサトにとってうれしい誤算だった。“週に4日は一緒に夕食をとる”というルールをもうけただけで、あとは自由の身。夕食の支度のために仕事を中断することも減り、こなせる仕事の量も増え、友達と食事に出かける回数も微増した。
 旦那と暮らしていたときは、所用のほとんどを日中にすませていた。毎晩夕食に間に合うように帰宅し、休日も妻と過ごしたがる彼をないがしろにするのは後ろめたかったからだ。留守にしても嫌な顔はしなかったが、ミサトにとってその決まりきった生活は知らず知らずのうちに重荷になっていた。

 トモヤに飲み会の予定が入っている日は、ミサトはお弁当を持たせて栄養バランスに気をつかった。ミサトが卵焼きをハート型に切って入れると、「やめろよ、恥ずかしい」とトモヤは抵抗してみせたが、まんざら嫌そうでもなかった。また、トモヤは“紳士”と“野獣”の演じ分けが上手だった。ミサトは、慮るばかりの紳士ではなく、やさしい野獣に飢えていたことに気づかされた。

 ミサトの誕生日の夜、トモヤは駅前のケーキ店でショートケーキとチョコレートケーキを買って帰ってきた。相変わらず好みが子供だと、ミサトはくすっと笑った。
「そのケーキは、明日のアフターパーティ用」。トモヤはそういって、ミサトからケーキの箱を取り上げ、うやうやしく捧げ持って冷蔵庫にしまった。ゆるめていたネクタイを締め直し、ミサトの手をとる。いつになく真剣な面持ちだ。

「さて、先ほど電話でも告知しましたように、これからビッグイベントが待ち受けています」と、彼は自分の言葉が金言であるかのように深くうなずいた。「オレが子供のころから行ってるピザ屋にですね、ミサトさんをお連れしなければならないんですよ。石窯のピザが絶品の店」
「さあ、支度をつづけて。30分後に出るから」。そう矢継ぎ早にいうと、トモヤは寝室のクローゼットに行くようせき立てた。

 中秋の月が雲間から顔を出し、夜風が心地よいオープンテラスで飲むサングリアは格別だった。トモヤのいうとおり、その店の石窯ピザは絶品で、金曜の夜ということもあって大勢の客でにぎわっていた。
「――ああ、もう35だよ。どうしよう。何者でもないまま30代半ば。そして、たぶん、あっという間に40だ」。ミサトは乾杯の後、グラスを手にしたまま絶望的に嘆いた。
「ええー、オトナの女って感じで、カッコいいじゃん」
「ずいぶん前に『いくつまで平気なの?』って聞いたら、『ケースバイケースだけど、40はさすがにきついかなあ。母親の年じゃん。対象として見られない』って言ってたでしょ。私、それにまた1歩近づいたんだよ?」
「あのころは18のガキで青かったのさ。オレも23になったしね」
 めずらしくトモヤが国際ニュースを食い入るように見ていると思ったら、フランス大統領選の話だったことがあった。“大統領候補の奥さん。国語の元担当教師で、24歳上で、知り合った当時から旦那さんがいたのか。オレもまだまだだな。”と真剣なまなざしをテレビに向けていた。その様子をはたから見ていたミサトは、何に対して挑んでるんだろうと苦笑した。
 食べかけのピザの皿に、緑色の葉が1枚、ひらひらと舞い落ちた。落葉には気の早いケヤキの葉だった。
「バジルと違って食べられないよな」と、サングリアとグラッパでほろ酔いになったトモヤが漫然と皿を見つめた。
「おなかこわすでしょうね」
「じゃあ、願い事でもする?」
「流れ星とかケーキのろうそくみたいに?」
「そうそう、そんな感じで」
 トモヤは緑色のケヤキの葉を指先でつまむと、皿の中央に置き、ミサトに目配せをした。ふたり同時に目をつぶる。きっと、同じことを願ってる、とトモヤは思った。その考えに間違いはなかった。ただ、ミサトの願い事はちょっとだけ欲深かった。

    ◇ ◇ ◇
 
 “オレがずっと通ってる美容室、紹介するよ”とトモヤに言われても、ミサトはなかなか行く気になれなかった。トモヤの独創的にして奇をてらっていない、立体的な髪型を創り出している美容師がどういう人か知りたい気持ちもあったが、行きつけの美容室と病院を変えるにはロングヘアをショートヘアにするぐらいの勇気がいる。

 結局、毛先の傷みが無視できないレベルになったある日、ミサトは前に住んでいた街の行きつけの美容室に赴くことにした。電車を乗り継ぎ、見慣れた街に降り立ったときには胸を締めつけられた。たったふた月留守にしていただけなのに、知らない街に来たようだった。駅の改札からメインストリートの商店街を抜けて、なじみの美容室の前に到着した。担当の美容師はミサトが旦那のもとを去ったことを知らない。

「あそこのパン屋の新作、とても美味しかったですよ」
「そういえば、この前、お客さんに聞いたんですけど……」

 いつもどおり、当たり障りのない世間話をしているうちにカットは終わり、ミサトは会計をすませて表通りに出た。旦那も同じ美容室に通っている。彼のカットの頻度を考えたら、自分が去ったあとに一度は来ているはずだ。だとしても、そんなプライベートなことを誰彼かまわず話すタイプではないよな、とミサトは思い直した。

 そのまま帰るのも忍びなく、商店街を歩いていたとき、小さな食材店の前を通りかかった。近くに大手のスーパーがあって、値段もとりたてて安いわけでもないのに、なぜかいつも客足が途絶えない不思議な店だ。その店先に、ちくわぶが目玉商品として並んでいた。奥の冷蔵ケースをのぞくと、手作りの絹揚げが冷気のなかに佇んでいた。ちくわぶと絹揚げの煮物は旦那の好物だ。そのとき、ミサトの脳裏にある考えが浮かんだ。旦那に煮物を作っていこうか――。かえって残酷だろうか。でも、作ってあげたいというエゴに軍配があがった。

 ゆるやかな坂道を下っていくと、道なりに見覚えのあるマンションが姿を現した。見覚えも何も、もう何年も住んでいたところだ。住んでいたところ? いや、ふた月あまり留守にしていただけともいえる。

 3階の角が旦那とミサトの部屋だった。オートロックを解除してエレベーターに乗り、無駄に明るい内廊下を少し歩いて部屋の前にたどり着いた。鍵を変えられていたらどうしようとミサトは心臓が早鐘を打つのを感じたが、持っていた鍵でドアはすんなり開いた。

 洗った洗濯物は几帳面にたたまれ、リビングのソファの片側に積まれていた。仕事から帰ったらクローゼットにしまうつもりなのだろう。「言ってくれたらやるよ」と言って、一度もやったことがなかった洗濯物。やればできるんだ、自分に甘えてまかせきりだったのではと腹立たしくもあった半面、「言われなくても、週末にたまってたらやって」とでも言えばよかったかな、とミサトは思った。

 ひとり分の食器と、最小限の調理器具もきちんと洗われ、食器かごに伏せてふきんがかけられていた。そこには彼ひとりの暮らしの営みがあった。

 まな板を調理台に渡し、シンク下の収納扉を開けて包丁を取り出す。やっぱり、また逆向きだとミサトは思った。「刃を右側に向けて差したほうが使いやすい」とミサトが言っても、「刃が右側だと、取り出したときに刃が外側を向くことになるから危ない」と旦那はゆずらなかった。包丁を取り出して、柄を半回転してから食材を切りはじめる。かつおのだしパックと干ししいたけでだしをとり、薄めのそばつゆのような味加減にする。そこに、乱切りにしたにんじん、絹揚げ、ちくわぶを入れて煮込むだけだ。煮込んだら火をとめて味をなじませる。旦那が帰ってくるころには、食材の芯まで味が染みているだろう。

 ミサトは引き出しからメモ帳を取り出し、ペンを握った。旦那の名前を頭に書いたが、先がつづかない。

“音信不通でごめんなさい。また連絡します。”
“ごめんね。落ち着いたら連絡します。”
“あなたの好きな煮物をつくりました。よかったら、食べてね。”

 どれも嘘くさい、とミサトは思った。“近いうちに戻ります”という一文も脳裏をよぎったが、突然うちを飛び出して、思いつきで立ち寄って煮物を作り置きして、そんなことを書けるはずもない。そもそも自分に戻る意思があるのか、戻る資格があるのかもわからなかった。白紙のメモとペンを引き出しに戻し、ミサトは“旧宅”をあとにした。

 
――会社帰り、駅前のスーパーに立ち寄った旦那はかごを手に取った。今夜は何をつくろう。そもそも食べたいものが浮かばない。ネギと油揚げを卵で閉じて衣笠丼にでもしようか。それなら労力も最小限ですむ。

 会社帰りに買い物をして帰る生活にも慣れつつあった。前は会社から自宅に直帰するのが常で、リビングに入ると、キッチンに立って食事の支度をしているミサトの姿が目に飛び込んできた。ささやかで、空気のように当たり前で、かけがえのない光景だった。部屋着に着替えて食卓につくと、程なく料理が並べられる。絶妙なタイミングだと関心していたが、それは単にミサトの気遣いによるもので、自分は当たり前のこととして享受していたにすぎなかったのだと、この数ヶ月で知った。

 おそらく、また休息が必要な時期なのだろう。「そういや……」と旦那は苦笑した。プロポーズから入籍まで半年の猶予をもうける話になったとき、「ちゃんと納得してからあなたと結婚したい」とミサトが言い出した。ミサトの案はこうだ。その半年間に食事に誘ってくる人がいたら食事をする、ただし食事以上のことはいっさいしない、というものだった。それを承諾する自分もどうかしていた。けれど、十分に納得したうえで結婚してほしい、と彼は思った。奇しくもモテ期だった彼女は3人の男と食事に行ったようだが、「3人には申し訳ないけど、あなた以上にすばらしい人はいないと感じた」と打ち明けてきた。この言葉は旦那のささやかな虚栄心と自尊心をくすぐった。そう、だから、もう大丈夫だと思っていたのだ――。

 彼は売場を一巡し、最後に卵のパックをかごの中にそっと入れた。

 交際当時から奔放なところがあった彼女のこと、そもそも結婚生活に向いていないのかもしれない。でも、彼女から別れを切り出さないかぎり、別れるつもりがないのも事実だった。ミサトのいない人生など、虚無そのものだ。それとも、自分から別れを切り出して彼女を自由にしてあげるべきなのだろうか。レジの列に並び、会計を待つつあいだも、彼の煩悶はつづいた。

 玄関に入り、彼は異変を察した。なんだろう。空気の歪みのようなものを感じる。いや、そんなものではない。においだ。だしのにおいがするのだ。彼は歩を速めて廊下をすすみ、リビングのドアを開けた。ダイニングテーブルの上に、深皿に盛りつけた何かが置かれていた。ラップに水滴がつき、深皿の内側の全景がにじんで見える。でも、なにかはすぐにわかった。ちくわぶの煮物だ。そして、この盛りつけとにおいは、間違いなくミサトの手によるものだ。
 ミサトが来たんだ。そう思うと、虚しさと物悲しさがこみ上げてきた。“勝手に家を出やがって”と汚濁した怒りがこみ上げてくるのを期待したが、怒りはこみ上げてこず、絶望的な切なさに圧倒された。いったん時空の歪みが修正されて近づいたのに、相手はまた手の届かないパラレルワールドに戻っていった。そんな切なさだ。

 探偵に依頼したり、LINEを送りつづけたりすれば、居場所を突き止められるかもしれない。でも、突き止めたところで、本人に戻る意思がなければどうにもならない。彼は椅子にすとんと腰をおろし、腕組みをしてうなだれた。深皿の内側では、ラップについた細かい水滴がひとつ、またひとつとつながり、やがてちくわぶの上に静かに滴り落ちた。

    ◇ ◇ ◇

 季節がひとつ流れ、冬になった。あれからもミサトは何度か、旦那の住むマンションに足を運んでいた。自宅とも別宅とも旧宅ともつかない、思い出のつまった場所だ。

 ちくわぶの煮物を作ったひと月後、マンションをたずねると、ダイニングテーブルの上にメモが置いてあった。

“ありがとう。煮物、美味しかったです。”

 旦那の几帳面な筆跡だ。旦那以外の筆跡のメモがあったら問題だと思ったが、ミサトははっとした。自分がそうしたように、旦那も自分以外の女を連れ込む可能性があるのだ。連れ込むだけでなく、同居する可能性だって。

 しばらく置きっぱなしだったのだろう。メモのところどころに茶色い斑点ができていた。メモ用紙に鼻を近づけてみる。紙のにおいしかしない。なにをつくったのだろう。彼の好きな衣笠丼だろうか。洗濯物も相変わらず、きれいにたたんでソファの片側に積み上げてあった。きちんと暮らせてるんだ、とミサトは思った。

 自分は何のために旦那と暮らしていたのだろう。愛していて、どんなに長く一緒にいても飽きたらず、1秒1秒が尊く大切な時間だった。“お世話係”がイヤで逃げ出したはずなのに、自分なしで暮らせている様子をみると、自分は何のために旦那と一緒にいたのだろう。お世話係ではなく、パートナーだと自負していたはずなのに。それとも、無意識のうちに、自らの役割をセックス付きのお世話係と位置づけていたのだろうか。

 
「――年末、どっか行こうか」と、ふいにトモヤが言った。ソファに寝ころんでテレビに目を向けたままだ。
「どっかって?」
「マザー牧場」
「なんでマザー牧場なの」とミサトは笑った。
「房総に親がいるからそのついでに。年末年始も帰ってこないっていうから、じゃあ、こっちから行こうかなと思って。ミサトにも会わせたいし。マザー牧場がいやなら、シーワールドでもいいよ」
 着実に幅寄せされてる、とミサトは思った。
「ご両親に会うのって、まだ早くない?」
「まだって、知り合って5年じゃん。で、いま一緒に住んでるじゃん。そろそろいいんじゃないかと思うんだよね」
「結婚するわけじゃないし、紹介には早いよ」といって、ミサトはテレビに目を向けたままのトモヤを一瞥した。なぜか彼はお笑い番組が嫌いで、Netflixで映画やドラマばかり見ている。いまも『ダーク・ジェントリー』に見入っていた。「それに、私、人妻だってわかってる?」
「おーおー、もちろん、ミサトちゃんに旦那さんがいるのはわかってますよ」
「なのに、ご両親に紹介するの? 彼女と不倫してますって?」
「まあ、旦那さんの話は伏せておくよ。ひとまずはね。で、もしこの先、旦那さんと別れるようなことがあったら、『離婚歴がある』ぐらいのことは話してもいいかもしれない」
 悪知恵が働くというか、トモヤはこういうクレバーなところがある。ミサトは感心しきりという体でトモヤの横顔を見つめた。
「ずっと気になってたんだけど、あなたはまだ23でしょ? 社会人1年目なわけじゃない? もっと遊びたいと思わないの? 同世代の女の子とデートするとか、一晩だけの軽い関係をもつとか、趣味や仕事に没頭するとかさ」
「ぜんぜん。そりゃ、先のことはわからないよ。合コンの数合わせで誘われたら、行ったりはするかもしれない。でも、合コンは嫌いだから誘われても断ってるし、そもそも先のことなんて、なんだってわからないもんじゃん。だから、ぜんぜん」

 ミサトが長年感じていた疑問に対する答えは、“ぜんぜん”の一言に集約されてしまった。
「だってさ、考えてもみなよ。たまたま喫茶店で隣の席に座った18の小僧がさ、勉強教えてくれますかって話しかけたわけじゃん。しかも、仕事中に。ふつうだったら、警戒して無視されるか、『忙しいんで』って断られてたと思うんだよ。だけど、ミサトは教えてくれたじゃん。教科の担当教師なんかよりよっぽどていねいに」というと、トモヤはくすくす笑った。「いまだから言えるけど、俺、あれで大学に入れたようなもんだもん。あれをもとにAOの提出資料をつくって、自己プレゼンをしてさ」
 熱意に欠ける赤字の添削指導をミサトは思い出した。たしかにあの教師の熱意のなさは常軌を逸していた。
「そんなこんなで、結局、ミサトに行き着くわけだ」というと、トモヤは忍び笑いをもらした。「無垢でもなかったけど、世間知らずな小僧にとっては結構鮮烈な体験だったのさ。あの出会いも、12も上の人とそんな関係になったのも。はじめての相手だったしね」
「え、前に関係をもった人っていなかったの?」。つまり、その、私が初体験の相手なわけ? もしかしてとは思ったけど、その割に違和感はなかったから深く考えていなかった。ミサトは、背負っていた荷が急に重くなったと感じた。
「前にはね。その後に2人と付き合ったけど、しっくりこなくて別れた」
 ミサトは、また1メートル、幅寄せされた気がしたのだった。

    ◇ ◇ ◇
 
 ミサトと旦那には年末の恒例行事とでもいうべきものがあった。ミサトはお節ともつかない、元日用の料理を何品かつくって大皿に盛りつけて冷蔵庫に入れておく。旦那はソファに横たわり、本を読んだり動画を見たりしながら、その光景にときどき目をやる。それにも飽きると、しぶしぶという様子で大掃除に取りかかるのだった。神奈川に住む旦那の両親とは松の内が明けたころに新年会をかねて会食、埼玉に住むミサトの両親は年末年始に旅行に出かけるのが常で顔を合わせることはなかった。

 今年は30日からトモヤと房総に行くことになっていた。彼のたっての希望で、30日はマザー牧場で来年の干支の動物に会ってから近くのホテルに泊まり、31日は朝起きて“海洋生物の気分だったら”シーワールドに行き、そうでないときは海岸沿いをドライブしてまた別のホテルに宿泊。元日の午前中にトモヤの両親を訪ねて、夕方前には帰京の予定だった。

 出発当日、トモヤは、房総行きのために借りたレンタカーに不満げだった。
「トヨタの車って、よくも悪くも優等生なんだよな。清く正しい運転感。間違いがない。でも、個性もあんまりない感じ」
 ふいにいやなゲップがこみあげてくるのを感じ、ミサトは口に手を添えた。酔ってきたのかもしれない。原因は、いま彼女の足もとに置かれているビニールの包みにあった。
 ファストフードのドライブスルーの看板を見つけると、トモヤはハイテンションでウィンカーを出して左車線に入った。車内に油のにおいが充満するとつらいから、せめて店内で食べたいというミサトに対し、「なにいってんの。めったに見かけないドライブスルーだよ? 車のなかで食べるなんて、ドライブ感満載でたのしいじゃん」とトモヤは譲る気がなさそうだった。車載スピーカーから流れるキリンジの『Drive me crazy』に合わせ、ノリノリでからだを揺り動かしていた。
 その結果がこれだ、とミサトは思った。
「お願い、窓全開にして」
「えー、寒いじゃん」
「だって、ほら」。ミサトは顔をしかめ、人さし指をくるくる回して車内を見まわした。「私がここで戻してもいいなら、話は別だけど?」
「はいはい、ごめんよ」とトモヤは悪びれもせず、肩をすくめ、右手で開閉ボタンを操作した。一気に吹き込んできた風に潮のにおいがまじる。海が近いことを告げていた。

  
 マザー牧場はその名のとおり、テーマパーク化した牧場だった。トモヤとミサトは一目散に牧羊犬のもとに向かい、ひととおりたわむれたあとは場内もぶらぶらと散策することにした。
 はじめて来たはずなのに、既視感があるのはなぜだろう。ミサトは思い出した。暗い時勢でキー局の朝のニュースを見るのがつらかった頃、チバテレビの朝のワイド番組を見ていたからだ。地元密着型の番組で、交通情報も天気予報も、何もかもが千葉に関するものだ。マザー牧場で子羊が生まれたという小さな記事が配信された翌日、その朝の番組はテレビクルーを派遣して生中継をしていた。地元密着という謳い文句に違わないフレキシブルさだった。
 
 動物とのスキンシップに飽きたトモヤは、ミサトとのスキンシップを求めるようになっていた。最初はじゃれつき、その次は手をつなぎ、腰に手をまわし、意味もなく見つめ、人目を忍んでキスをする回数が増えた。そろそろ引き上げたほうがよさそうだ、とミサトは思った。

「――さっきのフロントクラーク、見ものだったな」。トモヤは仰向けに寝そべり、片腕を折り曲げて手枕をした。そして、ミサトを見つめて忍び笑いをもらした。
 予約したホテルのフロントクラークは、そわそわしたトモヤを見て何かを感じ取った様子だった。「ごゆっくりお過ごしください」という言葉のニュアンスと、ふたりを見送る涼やかな視線にある種の含みがあった。彼の察しどおり、トモヤのそわそわは客室に入るやいなや一気に爆発したのだった。
 ミサトはトモヤの軽口を一笑に付した。「……ねえ、ご両親になんてご挨拶したらいい?」
「それって、ピロートークでする話?」とトモヤは笑って、ミサトの顔にかかった髪の毛を耳にかけ、額にそっとキスをした。「心配しすぎだって。うちの親、そんな堅くないから大丈夫。前もって、『彼女を連れてく』って連絡しといたし」
「結婚する予定もないのに、なんて紹介するの?」
「『真剣にお付き合いさせてもらってるミサトさん』はどう? どうとでも解釈できるじゃん」
「これって、真剣なお付き合い?」
「オレはそう思ってるけど?」
 やっぱり、来るべきじゃなかったのかも。まだ旦那がいる身なのに、旅行気分で房総まで来てトモヤの両親に会うなんてどうかしている。ミサトは東京に逃げ帰ろうかと思ったが、逃げるにはもう遅く、退路が断たれていることもわかっていた。

 玄関先に迎えに出てきたトモヤの両親を見て、ミサトは訪ねてきたことを後悔した。父親は目を丸くし、母親は温和な表情の奥に困惑の色が見え隠れしていた。そりゃ、無理もない。まだ社会人1年目の息子が、ひとまわりも年上の女を“彼女”として連れてきたのだ。
「ささ、どうぞお上がりになって」とトモヤの母親はうつむき加減にスリッパをすすめた。
「こんな田舎まで来ていただいて。ずいぶん引っ込んだところですけど、道に迷いませんでした? トモヤは運転がうまいとはいえませんし」。父親は彼を見やって愛想笑いをうかべた。
 案内された和室からは、替えたばかりらしい畳のい草の香りが漂ってきた。床の間には正月向けの掛け軸と生花が活けられ、部屋の中央に置かれた座卓にはどこからか取り寄せたらしいお節のお重が並んでいた。きっと、息子の花嫁候補が来るのだと期待いっぱいに準備してくれたのだ。そう思うと、ミサトは居たたまれない気持ちになった。
 それでも、新春の祝宴は和やかに進んでいった。途中、話題が尽きて押し黙っていると、「そうだ、ちょっと待ってくださいね」と中座した父親が奥から箱を積み重ねて戻ってきた。「これ、僕が子供のころに買ってもらったすごろくとかるた。郊外にマイホームを建てて一丁上がりだなんて、世相を表してますよね。いまは持つリスクを問う人もいるのに」
「その頃に建てた住宅は、老朽化が進んでいたり、空き家で放置されたりしているものも多いといいますよね」

 父親とミサトは空き家の老朽化問題の話で盛り上がり、母親は頃合いをみて“お雑煮の支度をしてくるわね”と立ち上がった。“お手伝いします”とミサトも立ちかけたが、“いえいえ、ゆっくりしてらして”と母親は微笑んでキッチンに向かった。最初のうちはトモヤも楽しげに輪に加わっていたが、父親とミサトの話が盛り上がるにつれて、ふたりの顔を上目遣いに見やっては面白くなさそうに部屋を出ていった。

 夕方、トモヤの両親宅を出るころには、父親とミサトはすっかり打ち解け、「いや、またぜひ遊びにいらしてください」「ありがとうございます。近いうちにまた」と挨拶をかわすまでになっていた。母親は相変わらず、賛成もしないけれど、反対もしないという体で愛想笑いをうかべていた。

 帰りの車のなかでも、トモヤはなぜか不機嫌だった。押し黙ってハンドルをにぎり、赤信号で停車したところでようやく口を開いた。正面を見据え、有料道路の入り口を確認しているようだった。
「父親とかなり盛り上がってたね」
「うん。話題の豊富な方だから、お話ししてて楽しくて」とミサトは当惑気味に答えた。「いけなかった?」
「いけないというわけじゃないけど」
 ミサトはトモヤのいわんとしているところがわかって当惑を深めた。「お父さんと私に嫉妬してるの?」
 トモヤは黙ったまま、ウィンカーを出して左車線に入った。そろそろ有料道路だ。
「本気で、お父さんと私がいい仲だと思ってるの?」
「ふたりには男と女を感じた」とトモヤはぽつりとつぶやいた。
 そもそも自分には旦那がいる。厳密にいえば、この関係は不倫だ。旦那との結婚は法的には継続しているし、トモヤとの関係も事実婚というにはまだ早く、同棲と呼ぶのがせいぜいだ。旦那との関係には無頓着なのに、なぜ父親とウマが合った程度で不機嫌になるのだろう。ミサトは解せなかった。
「お父さんって、女癖が悪かったりするの?」
「いや、オレの知るかぎり、それはない」
 ミサトは眉間にしわを寄せた彼の横顔を見ていて、ふとあることを思い出した。以前、ときどき通っていたビストロにトモヤを連れていったときのことだ。なじみの店員と軽口をたたきあっていたら、トモヤがスマホを持って表に出ていってしまったのだ。急ぎの電話をするでもなく、ふらっという様子で。10分後に戻ってきたときには店員を一瞥し、席につくやいなや何事もなかったのようにメニューを開いたのだった。
 たぶん、彼は私に相手がいようがいまいが構わなくて、目の前で自分以外の男と親しげにされるのが嫌なのだ、とミサトは思った。たとえ、それが父親であろうと。
「またご両親のところを訪ねる?」
「しばらくいいんじゃないかな」とトモヤは素気なく答え、有料道路に入ってアクセルを踏み込んだ。

 
 正月3日、翌日から仕事始めだと嘆くトモヤをなだめ、ミサトは表に連れ出すことにした。“最近さぼりがちだったから、そろそろジム通いを再開する”と年初に誓った彼をなかば強制的に連れていこうと思い立ったのだった。彼がトレーニングに励んでいるあいだ、ミサトは近所の本屋やスーパーを物色し、彼がジムから出てきたタイミングで腕を取って歩き出した。肌はつやつやと上気し、からだからはボディソープのいい香りがした。どうやら、ちゃんとメニューをこなしたようだった。

 近くの公園では、妻にいわれてしぶしぶ出てきたらしい子連れの父親が砂場にしゃがみ込み、孫を連れた老齢の女性は危なっかしい足取りでブランコをうしろから押してやり、小学生たちは携帯ゲーム機を手にベンチに集っていた。
 ふたりはどちらからともなく公園に立ち入り、隅のベンチに腰かけた。
「子供ってほしい?」と、ブランコの幼児を見ていたトモヤが言った。
「いや、考えたことないね」。ミサトはけだるげな砂場の父親に目をやった。早々に切り上げてうちに帰りたそうだった。「夫というか、パートナーとの暮らしを満喫したいから。自分のライフスタイルに子供は必要ないと思ってきた」
「そうなんだ。オレは子供、ほしいな。自分が一人っ子だから、兄弟がいる状況にあこがれがあるんだよね」
「それは意外」
「でしょ? 自分でも意外」
 ミサトが隣を見やると、トモヤは遠くを見つめて微笑んでいた。そこに彼女が出会った当時の彼の姿はなかった。少年と青年のはざまを漂っていた18歳の彼はとうに消え、精悍なたたずまいの青年が座っていた。
「この先、トモヤはどうしたい?」
「どうって?」
「私には旦那がいて、別れるかどうかもわからない。お試し同棲をつづけるには重い状況だし、本気でつきあうには見通しがたたない状況でしょ?」
 よく聞くのは、逆のパターンだとミサトは思った。男に妻がいて、不倫の関係で、見通しのたたない関係にしびれを切らした女が、“この先どうしたいの? 奥さんと別れるつもりはあるの?”と詰め寄るあれだ。ミサトは“ずるい男”よりずるかった。旦那と別れる気持ちがあるのか自分でもわかっていないのに、もしかしたら刹那のお遊びかもしれないのに、トモヤに誠意を求めたのだから。
「ミサトが旦那さんと別れる覚悟ができたら、結婚を申し込むかもしれない。両親に紹介したのだって、その可能性があると思ったからだし」
「トモヤは子供がほしいと思っていて、私は子供を持つつもりがないこともいまはじめてわかったわけでしょ?」
「そりゃ、気軽に聞けるようなことでもないしね」とトモヤはなだめるように言った。そして、ミサトの肩に腕をまわし、頭頂部にそっと唇をつけた。「意見が衝突したら、そのときどきで話し合っていけばいいじゃん」
 うん、とうつむいてミサトは考え込んだ。「でも、意見が決定的にちがってどうにもならないときは、どっちかが折れることになるわけよね。あるいは……」
「別れるか? それは避けたいな」
「できるだけ避けたいけど、お互いを傷つけあって不幸になるよりはいいのかもしれない。最善の方法ではないし、あくまでも一般論だけどね」

   ◇ ◇ ◇

 いったいどういう了見なんだろう、とミサトは内心息巻いた。

 取引先から急ぎで打ち合わせをしたいと連絡が入り、都心まで出向いた帰りだった。用件は電話やメールでも済みそうな話で、担当者が用件を文章にまとめられず、打ち合わせという名目で呼び出したようだった。「まったく……」とミサトはまたため息をついた。

 それにしても、等々力から都心は遠い。その逆もしかりだ。環境はいいんだけど、都心から遠いのがネックだよなとミサトはひとりごちた。

 午後6時過ぎの渋谷駅は帰宅ラッシュのさなか。左右に人の流れが分かれ、混乱もなく規則的に往来している様子はいつ見ても感心させられる。とぼとぼと東横線のホームに向かって地下道を歩いていく。ふと、ここが旦那の通勤経路だとミサトは思い出した。逃れたくてしょうがなかったのに、気づけば、旦那のことばかり心配している。彼がひとりで暮らせていることは、“旧宅”を訪ねたときに見てわかっていたし、自分がいないならいないなりにやっていける人だともわかっていた。彼には自分が必要だと思うのが尊大なエゴだということも。

 でも、なんだろう。

 旧宅を出て半年近く。今後、彼が自分の人生に関わりをもたないことが、また自分が彼の人生に関わりをもたないことがいまだに信じられなかった。そう考えるたびに、家を飛び出したのはどっちだと自戒するのだが、それでもしばらくすると、この先に待ち受けているであろう数十年という自分の人生が終わるまでの時間と、その時間軸に彼がいっさい交わらないことを考え、途方もない虚無感に襲われるのだった。

 そろそろ改札が近づき、ミサトはバッグのポケットに手をつっこんでパスケースを取り出そうとした。さっき入れたはずなのに見つからない。一瞬、バッグのなかに視線を落とし、ハンカチのあいだにパスケースが挟まっているのに気づいた。ふたたび視線をあげると、見覚えのある顔が正面から近づいてきた。旦那だった。ベージュに格子柄のツイードのコート。一歩まちがえると老けて見えるそれを、彼はいつもどおりしっくり着こなしていた。

 旦那は目を丸くし、左側通行の道を途中まですすむと、ちょうど人の流れが切れたところで折り返してきた。軽くうなずき、改札近くの柱の陰にミサトを誘導した。 
「ひさしぶり……でいいのかな」。旦那は足もとに落としていた視線をあげて、ミサトの顔をのぞきこんだ。
「ごめんなさい。勝手をして」。ミサトは足もとに視線を落とした。旦那の靴はきれいに磨き上げられていた。
 旦那はうっすらと笑みをうかべ、首を左右に振った。「煮物、ありがとう。八宝菜も美味しかったよ」
「ごめんね、留守中に勝手に入って」
「さっきから謝ってばっかだなあ。あそこはミサトの家でもあるんだよ」と旦那はなだめ、言葉を継いだ。「あれは、カラオケボックス以来の感動だった。あの弁当の全景、いまでも鮮明に思い出せるもんな」
 結婚前、彼が忙しく帰宅もままならなかったときのことだ。見かねたミサトが弁当をたずさえて彼の会社近くまで出向き、持ち込み可のカラオケボックスで一緒に食べたのだ。多忙を極める彼は精神的に参っていて、おにぎりを一口かじった瞬間、ぽろぽろと涙をこぼしたのだった。
「ちゃんと暮らせてるみたいね」
 旦那はそれには答えず、黙ってミサトの目を見つめた。こんなふうにまっすぐに見つめられたのはいつ以来だろう。彼女の耳のなかでは雑踏の狂騒が反響し、視界の端で興味本位の一瞥をくれる人たちの姿をとらえていた。
「でも、寂しいよ。住み慣れた家が他人の家のように感じることもある」というと、旦那は一呼吸おいてつづけた。「もし不満があるなら言ってほしい。知らず知らずのうちに負担をかけていたなら言ってほしい」
 ただ逃れたかっただけ、自由と孤独、そして刺激を渇望していただけ、とミサトは内心つぶやいた。
「なにも。少なくともあなたには。私が勝手だっただけ」
 旦那がふいに口を開いた。「もしこの先もそうあるなら……俺と一緒に歩む人生は、ミサトにとって幸せ?」
「あなたにとっては?」とミサトは問い返した。
「この上なく幸せだし、可能なかぎり温めていきたい」
「私が幸せでないといったら? 別れる?」
「いや、それ以外の方法を模索する。幸せだと感じてもらえるように最大限努力するよ。別れるかどうかはその先の話だ」
「私が幸せだといったら?」
「もっと幸せだと感じてもらえるように力を注ぐ」
 雪解けの空気がふたりを包み込んだ。ミサトは言葉もなく、旦那のコートの胸元のボタンを見つめていた。
「帰ろうか?」と旦那がミサトに手を差し伸べた。「俺の人生とあの家にはミサトが必要だ」

 いつかまた逃げ出すかもしれない。けれど、いまは帰りたい。旦那のもとに。彼と築いてきた堅牢な楼閣に。ミサトは旦那の手をとり、一緒に階段をのぼりはじめたのだった。
 

駆け落ちはしたけれど――ユウト、25歳の場合――

 
前作の最後にチラッと出てきた駅員が今回の主人公です。

    ◇◇◇

 午前中に若い男とタクシーに乗った女だ、 とユウトは思った。駅舎に入ってきた彼女の横には例の若い男ではなく、30過ぎに見える背の高いスーツ姿の男が立っていた。ついつい目で追い、ホームの中ごろまで進んだところで男が振り向いた。あ、ヤバい。ユウトは素知らぬ顔をしてめったに人が通らない改札のほうに向き直った。

 しかし、来たときには若い男と一緒で、帰りには背の高い三十路男と一緒とは、いったいどういうことなんだろう。3人とも見かけない顔だから、町の人間じゃないんだろう。駆け落ちして旦那が連れ戻しにきたとか? まさかね。こんな田舎に逃げてもすぐに噂になるわ。でも、オレならあの筋肉質の若い男がいい。あの男はイケる。
 中年の女がユウトを一瞥し、目が合うとうつむき加減に会釈して改札を通り抜けていった。田中のババアだ。言いたいことがあるなら言やいいのに。でも、とユウトは薄笑いをうかべた。この厄介な状況も明日までだ。明日の朝、シゲキと町を出る。誰にも告げず、こっそり抜け出すように。そのときが待ち遠しかった。

    ◇◇◇
 
 ユウトが自分の性指向に気づいたのは、中学1年生のときだった。学年一の美人にバレンタインチョコをもらっても嬉しくなく、それを見て冷やかしてきた級友の男子に特別な感情を抱いた。いつしか、彼の姿を目で追うようになっていた。他の級友とバカ騒ぎをする姿、体育着に着替る姿、陸上部で砂ぼこりを舞い上げながらトラックを走り抜ける姿。水泳部だったユウトは泳ぎ終わってプールサイドを移動するときには、必ず歩をゆるめて彼の姿を探した。サッカーでゴールを決めたユウトに駆け寄り、肩を組まれたときには心臓が早鐘を打った。

 それでも、誰かに自分がゲイだと告げる勇気はなかった。女子にモテたのもハードルを高くしていた。部活が終わると、校門で女子が待っていることも度々だった。勉強は中の上程度だったが、スポーツ万能のイケメンに寄せられる期待は並々ならぬものがあった。もしゲイだとカミングアウトしたら、周りの失望や落胆を招き、最悪の場合は孤立やいじめに発展しかねないとユウトは案じた。

 だから、この町にいるかぎりは、誰にも言わないつもりだった。必要なときだけネットや出会い系アプリで相手を探し、近隣の街まで出かけてデートする。お互いの性欲だけ満たして終わりということも多かった。本気になれる奴ができたとして、そいつとの将来なんて考えられなかった。親戚、家族、同級生だらけのこの町に住んでいるかぎりは、他の男と一緒に暮らすなど夢物語に思えたのだ。

 
 だが、事態は突然動いた。出会い系アプリで会える相手を探していると、近くに悪くない相手が見つかった。写真はボカしてあったが、身体は悪くなさそうだった。メッセージもまともだ。会ってから想像と違って辞退するのもよくある話。女子受けがよくてもゲイ受けがいいとは限らないということは、ユウト自身、断られる回数で学んでいた。

 まずは会おうと思って連絡を取り合い、岬近くの駐車場で相手が現れるのを待った。待ち合わせ時間が迫るにつれ、ユウトの胸は高鳴る。今日はどんなやつが来るだろう。待ち合わせ時間ちょうどになると、ウィンカーを出して駐車場に入ってくる車があった。ユウトは車を出て、休憩所前のベンチに向かう。そこが待ち合わせ場所だ。
 この駐車場も昔はドライブインで、ユウトが子供のころは週末ともなると家族連れが暇つぶしに来ていたが、いまや軽食を出していた休憩所は廃墟同然だった。駐車場は閑散とし、展望台に向かう人らが車を止めるか、カネのないカップルが車内でことを済ませるための場所になり果てていた。

 やっぱりあいつだ――。その男は車を出ると、ユウトの姿をチラッと確認し、視線を泳がせながら歩いてきた。お互いの顔がわかる距離まで近づいたとき、ユウトとその男の顔が同時に引きつった。男はユウトの高校時代の担任教師だった。

「よう、久しぶり」。元担任はぎこちない笑顔で言った。
「どうも」とユウトはぶっきらぼうに応じる。相手を探るように上目遣いで見ながら、ようやく長年の謎が解けたと感じていた。

 高校時代、元担任とはよく視線がかち合った。ぼんやり窓の外を眺めていると視線を感じ、振り向くと必ず彼が自分のほうを見ていた。すると、元担任は教師然として、「こら、ぼんやりしてるんじゃないぞ」と冗談めかして注意をした。テスト中の見回り時も、教科書の音読時も、教室を巡回して自分のところに来ると、必ず肩を二、三度たたいていった。自分に向けられていた視線が生徒を慮るそれではなく、単なる情欲によるものだったのだと、この人気のない駐車場で初めて知った。

 それなら、もっと早く誘っておけばよかった、とユウトは内心苦笑した。当時の元担任はイケメンといって差し支えない容姿で、ユウトは自慰行為の材料にすることもあった。部活が終わって誰もいなくなったプールの更衣室で着替えていると、彼が入ってきて早く帰るよう促し、そのうちに視線がかち合い、奥に並んだシャワーボックスの1つに入ってカーテンを引き、熱い湯を浴びながら激しく情を交わすというのが定番の妄想だった。

 だが、いま目の前に立っている教師は情欲をかきたてる存在にはなりえなかった。引き締まっていた体はたるみ、頭髪は早くも後退し、目もとと口もとには生活疲れを感じさせるシワが数本走っていた。結婚したと聞いたけど、形だけのものだったのだろうか、とユウトは思った。

 昔は教師と生徒という間柄で、権威的に振る舞うこともあった元担任は、おそるおそるユウトの機嫌をうかがうように隣に腰を下ろした。

「立場上、言えなかったけど、ずっとおまえに気があったんだ」。元担任は車を降りるときから手にしていた缶コーヒーをすすった。
「そうだったんですか」とユウトはすげなく応じる。
「もしよかったら……」
「いや、やめといたほうがいいですよ」。ユウトは間髪入れずに答え、いったん腰を上げて座りなおした。体ひとつ分の隙間ができる。自分の太ももに忍び寄ってきていた元担任の手を遠ざけるためだった。
 残念そうな顔をする元担任に別れを告げ、ユウトは駐車場をあとにした。とんだ災難だ、せっかくの休みが台なしだと苛立ったが、もうこういう形で会うことはないだろうと思い直した。

 本当なら、駐車場での不運な邂逅で終わるはずだった。小さな町の数少ない同胞同士、お互い沈黙を守るのがルールのはずだった。けれど、悪いことに元担任はモラルを期待できる人物ではなかった。

 
 ユウトが高校生だったころとは時代が変わり、“LGBT”という言い回しで啓発授業が行われるようになっていた。
 元担任はユウトに断られたことを根に持っていた。多少年を取ったけど、自分はまだイケる。ハッテンバで誘われることも多い。なのに、あいつは……。奇しくも啓発授業の担当は元担任だった。

「……この教室にもいるだろう。卒業生にもいるだろう。先生が顧問をしていた水泳部の生徒にもいた」と彼は教壇から語りかけた。生徒たちの視線が自分に集まるのを感じた。特に水泳部の生徒の視線は自分に釘づけだ。このコントロールできている統率感は何度経験しても気持ちがいい。効果的な間をおいて、彼は話をつづけた。
「先生は在学当時にその生徒から想いを打ち明けられた。7~8年前のことだ。でも、先生はいまの奥さんと付き合っていたし、気持ちには応えられないと断った。だからといって、誤解しないでほしいんだ。先生は決して不愉快に感じたりはしなかった。むしろ、彼の気持ちに応えられないのを申し訳なく思ったくらいだ。みんなには広い心を持ってほしい。自分と違う立場におかれた人の苦悩にも思いを馳せてほしい。同性を好きになったり、生まれ持った性と違うと自認したりするのは決しておかしいことではないんだ」

 最後の付けたしは、ささやかな自己弁護だったのだろう。生真面目に聞いていた生徒もいれば、ホモとレズの話かよ、と隣の席の友達に顔をしかめてみせる生徒もいた。初の啓発授業ということで、他の教員たちも聞きに来ていた。元担任は内心ほくそ笑んだ。こうして時限爆弾は仕込まれたのだった。

 
 イケメンと呼べる容姿で気さくな性格なのに、女っ気がないユウトは周りから常々不思議がられていた。合コンも付き合い程度に参加し、それ以外は疲れてる、カネがないと理由をでっち上げて断っていた。彼の町では、たいてい20代で結婚する。気ままな独身でいたくても、四方八方から圧力が迫ってくる。圧力を振り切った先に待つのは、欠陥人間、変わり者というレッテルだ。ユウトの友達も、同級生や職場の人、合コンで知り合った相手などと結婚し、独身者は減りつつあった。

 そうしたなか、女っ気のないユウトは不思議な存在だった。モテるから選り好みしているんだろうと冷やかされることもあった。しかし、元担任が作り話を吹聴し、不思議がられることはなくなった。
 小さな町の噂話は、電報やラジオに例えられる。それだけすぐに広まってしまうからだ。部員数の少ない水泳部のOBで、7~8年前に在学していて、独身で、女っ気がない男となると、候補は絞られてくる。いまやユウトがゲイだということは公然の秘密となり、“ゲイの駅員”として知られるようになっていた。

    ◇◇◇

「――にしても、今日はジジイばっかで目の保養にならないなー」
「しっ、声がデカい」とユウトはシゲキを小突いた。「ったく、何しに来たんだよ」
「え、風呂に入りに」とシゲキはうそぶいた。

 この日、ユウトは恋人のシゲキとスーパー銭湯に来ていた。確かにシゲキの言うとおり、洗い場も浴槽も年寄りばかりで若い男の姿はなかった。彼らは、しょうがねえな、と言い合い、いったん風呂から上がることにした。

 ユウトがシゲキと知り合ったのは半年前、元担任の仕掛けた時限爆弾が炸裂してヤケになっていたころだった。
 近場の街のゲイバーでしたたかに酔っ払い、トイレで激しく嘔吐していたときに誰かが背中をさすっていてくれた。吐くものがなくなって顔を上げると、そこにはさっきまで隣で飲んでいたシゲキがいて、心配げにユウトの顔をのぞき込んでいた。ユウトの目にそのときのシゲキはガチムチの天使に映った。
 しばらく店のソファ席に横たわり、ようやく座れるようになったところでシゲキと話しはじめた。彼は実家のコンビニを手伝っていること、ユウトの家からそう遠くない地域に住んでいることがわかった。シゲキはユウトが何者かすでに知っていた。無理もない。小さな駅の駅員なのだ。そうして何度か会っているうちに、事実上、付き合っている状態になっていた。

――ふたりは和室ラウンジに移動して、スマホをいじりながらのぼせた体を休めていた。

「読んでみろよ、すげぇキラキラした話」とシゲキがニヤニヤして、ユウトにスマホを見せた。また彼的にツボる記事を見つけたのだろう、とユウトはスマホを受け取った。

“LGBT市場に注目! 数兆円規模の経済効果! ”

 子供がいなくて教育費がかからない、ホワイトカラーで共働きだから可処分所得が多い、だから彼ら相手の商売を考えましょう、という内容だった。ユウトは記事をななめ読みし、スマホをシゲキに返した。「ふーんって感じだな」
「な? 人権の前にカネ落としてくれる人って扱い。しかもこれ、厳密にいうと、カネ持ってる都会のゲイとバイの男にほぼ限られた話。賃金格差や雇用差別があるから、LTはあんま関係ないし、まして田舎の貧乏人に至ってはどの属性でも関係ない。落とすカネがねーから」

 ユウトは両手を後ろにつき、足を前に投げ出してシゲキの顔をまじまじと見つめた。
「なんだよ」とシゲキが怪訝そうに見つめ返す。
「いや、おまえって、無駄に頭の回転がいいんだよなって思って」
「無駄はよけいだ」というと、シゲキはユウトの脇腹をくすぐった。じゃれ合っていると、向こうから人が来るのが見えた。彼らは何事もなかったかのように澄まして居ずまいを正した。

 またしばらくスマホを見ていたが、今度はユウトがシゲキに話しかける番だった。
「この写真、うわーって感じ」
「どれ?」。シゲキがユウトのスマホの画面をのぞき込んだ。少しずつ口もとがゆがみ、やがて失笑にいたった。「これ、シャレじゃないんだよな」
 エグゼクティブゲイの特集記事らしく、ブランド物のスーツを着た小綺麗な男性がずらりと並んでいた。
「超キラキラしてて目がくらむ」といって、シゲキは目をしばたかせた。「“ゲイというと遠い世界の話で、素性が怪しく、何者かわからないと感じるかもしれません。私たちはごくふつうの市民です。あなた方の近くにもいる、ごくふつうのエリートビジネスマンです。社会的地位が高いので、変な真似もしません。まして淫乱な行為など考えたこともありません”って声が聞こえてきそう」
 シゲキのこういうクレバーでニヒリスティックなところがユウトは嫌いじゃなかった。
「ああ、キラキラはいらないから、希望と光がほしい。オレたちのユートピアはどこにあるんだろう」と嘆息をもらし、ユウトは畳の上にひっくり返った。

 
 次の日、ユウトが仕事から帰ると、父親は居間でビールを飲んでいた。当然、元担任の仕掛けた時限爆弾の破片は父親のもとにも及んでいた。

 父親はユウトのほうを一瞥し、「帰ったのか」と言うと、また面白くもなさそうな顔でテレビに視線を戻した。お笑い芸人が渾身のギャグをいって会場を湧かせているのに、オヤジはわかっているのだろうかとユウトは疑問に感じた。そのまま自室に向おうとしたとき、父親がふいに口を開いた。

「昨日、スーパー銭湯にいたってな。山下から聞いたぞ。息子さんと“友達”を見かけたって」
 山下というのは、父親の同僚の工員だ。“友達”のニュアンスが親友とか、遊び仲間という意味合いでないことはユウトにもわかった。
「それで?」
 居間の入り口に立っていても面白くない。早く風呂に入って休みたいとユウトは思った。しびれを切らしてその場をあとにしようとすると、父親が重々しく口を開いた。
「おまえは女になりたいのか?」
「は?」。想像もしていなかった問いにユウトは混乱した。やがて父親の言わんとしていることがわかり、悲憤がこみ上げてきた。そこからかよ、とユウトは内心うんざりした。

「だから、オレは男で男が好きなわけ。自分のことは男と思ってんの。異常とか正常とか、そういう話とも違うの。これは変えられないの。じゃあ、オヤジは男とヤレる?」
「な、何をいうんだ!」と父親は声を荒らげた。
 もう止められなかった。これまでため込んでいた怒りがマグマのように噴き出してきた。「つまり、そういうレベルの話なの。オヤジが男とできないように、オレは女とできないわけ。できないというより、したくないわけ。男は勃ちさえすれば、どんな相手だろうとヤレないこともないけど、だからといってオヤジは男とヤリたいと思う? 思わないだろ? オレは女とヤリたくない。性的な意味で関心がないの。対象は男なの」
 顔を真っ赤にした父親の姿を横目に、ユウトは情けなくて頭を掻きむしった。「いまはさ、わざわざ本読まなくても、新聞さえ読めば、基礎ぐらいわかるようになってんだろ。頼むからさ、何か言うんだったら、それからにしてくれよ」

 父親はスポーツ紙しか読まないんだった、とさらに落胆した。
 昨日、シゲキとじゃれ合いながら読んだ記事をユウトは思い出した。あのキラキラしたゲイたちには、学のない親もいなければ、こんな不毛な口論で労力を使ったりする機会もないんだろう。父親が工場勤めで、母親がモールの食料品売り場のバックヤードで魚をパック詰めしてることもないかもしれない。
 元担任のアウティングにはじまり、小さな町の息苦しい暮らし、そして親の無理解。ユウトは限界を感じていた。

 
「――逃げようか」。黙って話を聞いていたシゲキが絞り出すような声で言った。彼が麦焼酎の入ったロックグラスを手のなかで回すと、大きな氷がカラカラと音を立てた。カウンターのダウンライトを浴び、彫りの浅いシゲキの目元にはめずらしく影が落ちていた。

 近場の街のゲイバーは客もまばらで、店主はため息まじりにグラスを磨いていた。鹿児島から流れ着いたという彼は華奢な体格で挙動にシナがまじり、雰囲気としては“ママ”なのだが、ママと呼ばれることを頑なに拒み、客には“マスター”と呼ばせていた。
 この日の店には、なぜか大量のバラやカサブランカがそこかしこに活けてあった。花瓶はなく、バケツや空瓶に無造作に突っ込んである。花などこの店らしくもない。町の文房具屋で買ったプラスチックの額縁入りの、南仏の港の風景を描いたポスター画が埃をかぶって壁にかかっているような店だ。
 聞けば、同じビルに入るキャバクラで女の子の誕生日パーティがあり、掃いて捨てるほど花束が届いたのだという。困り果てたマネージャーがおすそ分けとして持ってきて、断り切れずにもらったのだった。
「うちと違って繁盛してんだよね、あの店」。彼は憂いを帯びた視線をカサブランカに向け、またため息まじりにグラスを磨きはじめた。

「で、逃げるって?」といって、ユウトはミックスナッツのアーモンドを選って口に入れた。
「文字どおりだよ。町を出て、どこか遠いところで暮らす。たとえば、東京とかで」
「でも、オレら、生活の基盤あそこだろ? 他のところに住んだことないのに」
「それはオレも同じ。わかってる」。ずっとユウトを値踏みするように見ていた奥の男に、シゲキはさりげなく牽制のまなざしを向けた。「だけど、おまえも行き詰まってて、あの町で暮らしつづけるのはキツいと思うんだ。あの町で、男同士で暮らすなんて想像できるか?」
「無理だな」
「だろ? それにうちの親も、オレがおまえとつるんでると知って、何か感じてるみたいだし」
「ごめん……」
「いやいや、そこは謝るところじゃないって。元凶はあいつ、元担任」というと、シゲキは眉間にシワを寄せた。「遅かれ早かれ、バレるとは思ってたんだよ。カミングアウトするだけの気力もないし、うちの親がそれを理解して受け入れられるとも思えない。うちは商売やってるのに体裁が悪いって渋い顔をするのがせいぜい。バレて問い詰められたときに、向き合うほどの体力もない。バレて親元で暮らすのも息苦しい。かといって、実家を出ても、町の近くで暮らしてたら、ぜったい誰かに会う」

「だから、町を出ようって?」
「ああ、長い目で見たら、それがいいんじゃないかってさ」
「たださ、親にも黙っていくわけだろ? 男と駆け落ちしますって言って、気持ちよく送り出してくれるとは思えない」
「いや、置き手紙ぐらいはするさ」。シゲキはなだめるようにユウトの手に自分の手を重ねた。
「そのまま関係がこじれて、一生この町に帰ってこれなくなるかもしれねえよ?」
「まあな。でも、オレは構わない。弟のほうが商才があって、うちのコンビニ、親も弟に継がせたがってるし。この先、ジジイになって、あの狡い弟の下で働くのは嫌だ」
「そっか……」というと、ユウトはクスクス笑い出した。「考えてること、一緒なんだな」
「へ?」
「じつはオレも限界だと思ってた。たぶん、オレのほうがもっとかな。で、遠くに行きたいと思って、東京とか大阪とか、都会の情報をなんとなく調べてた」
「じゃあ、マジでやっちゃう?」
「ああ、マジでやる」
「止めはしないけど、酔いが冷めてからもう一度考えなよ」。そばで話を聞いていたマスターが苦言を呈し、またお客が減っちゃうとひとりごちた。

 いや、オレたちは酔ってない。ユウトとシゲキはそっとグラスを合わせた。

    ◇◇◇
 
 “駆け落ち”は、3ヵ月後に実行することにした。それまでにやることを“3ヵ月計画”と題してリストアップしていった。まずは、住む場所の選定だった。

 いざ調べてみると、東京という単独の街があるわけではなく、東京のなかに新宿や渋谷といったいろんな街が集まっているのだとユウトは思った。
 田舎から出たことがない自分が突然オシャレな街に住んでも馴染めない気がする。いろいろ調べていくうちに、新宿から電車で4分の東中野という街が目にとまった。どうやらゲイ人口も高く、日曜の午後、自宅から駅のホームに向かうまでにひと目でわかる“お仲間”を8人は見たと、住民のゲイのブログに書いてあった。男同士で寄り添って歩いていても変に思われない街。ストリートビューで探索してみたが、悪くなさそうだった。
 ユウトとシゲキは東中野に絞って部屋を探すことにした。家賃相場は高くないというが、地元の町に比べたら2倍、ヘタしたら3倍だ。2人で暮らすとしても、家賃は9万、できれば8万台までに抑えたい。幸いにして、実家暮らしでたまった貯金があるから、初期費用や引越し費用はまかなえる。

 住む街は決まったものの、遠方から何度も物件を探しに行くわけにもいかない。そこで、シゲキのアイデアを採用することにした。不動産サイトでめぼしい物件を見繕っておき、2日間でぜんぶ見て回って決めるのだ。5月半ば、1泊2日の弾丸ツアーを敢行することにした。

 男2人住まいで、就職活動も引越し後にはじめる予定でいたことから、部屋探しは難航するだろうと思われた。ところが、最初に訪ねた不動産屋のおばさんが気のいい人でトントン拍子に話は進んだ。

「このあたりはそういうカップルが珍しくないし、まあ、長年この商売をやってると鼻が利くようになるもんなのよ」というとユウトとシゲキの顔を交互に見つめ、「うん、あなたたちは大丈夫。家賃を踏み倒すタイプじゃないわ」と二つ返事で物件を紹介してくれた。不動産が入る古いビルの最上階がそれだった。
 表に“お客様を案内中”の札を下げて鍵を締めると、そのまま奥の階段をのぼりはじめ、「うちの持ちビルなのよ」と何か重要な秘密を打ち明けるかのように声をひそめた。取りっぱぐれる心配がないというわけだ。階段をのぼりきると、彼女は弾んだ息を整えながら部屋の鍵を開けた。「年々つらくなるのよね、階段。5階でエレベーターがないけど、あなたたちは若いから大丈夫よね」

 間取りは2Kだが、必要十分の設備で日当たりもよく、住み心地は悪くなさそうだった。彼らが決めたと告げると、「やっぱり私の見込みに間違いはなかったわ」と大口を開けて笑った。その翌日にはユウトのもとに入居審査通過の連絡が入り、あとは入居当日に契約書にサインするだけとなった。

 必要最低限の家具と家電はネットで手配し、生活用品は住みはじめてから徐々に揃え、持っていく荷物は1人ダンボール3個までと決めた。親の目を盗んで車のトランクに詰め込み、前日までに近隣のコンビニから分散して出す。日付け指定をすれば、東京に引越すその日に受け取れる。
 職場への辞表の提出、役所での転出証明書の発行手続きもすんだ。いずれ親に新しい住所を知られるかもしれないが、その時はその時だ。とはいえ、町の外にもめったに出ない両親が東京まで訪ねてくるとも思えなかった。

 あとは、町を抜け出す方法だった。電車で逃げることはできない。ユウトは鉄道駅の駅員で顔が割れているし、車内で知り合いに会う可能性も高かった。そこで、レンタカーを乗り捨てることにした。早朝にレンタカーを借り、人気のない駐車場で待つシゲキを拾う。そのまま最寄りの新幹線駅まで移動し、駅前の支店でレンタカーを返却する。それが得策に思えた。

 “女になりたいのか?”の衝突以来、ユウトは父親と口をきいていなかった。母親は友人に初孫が生まれたと知ると、私は内孫の顔を見られないのね、と聞こえよがしに嘆いた。妹は自慢の兄がゲイだとわかって以来、家のなかですれ違ってもよそよそしく避けて通るようになっていた。どいつもこいつも消えちまえ、とユウトは毒づいた。

 
 駆け落ち当日の朝は、あいにくの梅雨空だった。出勤を装って家を出、表の郵便受けに家族宛の手紙を入れておいた。郵便受けを確認するのはユウトの仕事だ。きっと、夕方まで誰も気づかないだろう。

 駅近くのレンタカー屋で軽自動車を借り、シゲキとの待ち合わせ場所に向かうと、彼はコンビニのイートインコーナーでコーヒーをすすっていた。ユウトの姿を認めると、残りのコーヒーを飲み干し、空いた紙コップを店内のゴミ箱に投げ入れて表に出てきた。大きめのメッセンジャーバッグをななめがけにしている。

「いつも手ぶらなのにめずらしいな」。雨を避けようと助手席に駆け込んできたシゲキにユウトは言った。
「昨日、思い立って買ったんだよ。駆け落ちすんのに、手ぶらってわけにもいかないだろうって」。慣れないせいか、シゲキはバッグの置き場に迷ってシートベルトを締めるのに手間取っていた。
 見かねたユウトが後部座席のほうに顎をしゃくった。「後ろに置いたら?」
「それだ。その手があった」

 シゲキがシートベルトを締めたのを見届けて、ユウトはサイドブレーキを外した。ギアをPからDに動かし、ハンドルを握り直す。アクセルを踏み、駐車場の出口まで来たところでウィンカーを出して国道に入る。なめらかな走り出しだ。左右に振れるワイパー越しに標識を見上げ、徐々に加速する。はやる気持ちを抑えられない。とっととこの町に別れを告げたかった。

    ◇◇◇
 
 ユウトとシゲキは東京での暮らしに少しずつ馴染んでいった。最初こそ、日に一度はLINEでメッセージをよこしていた両親も、ユウトが既読スルーを決め込むとしだいに連絡をよこさなくなった。そろそろブロックしようかと考えていたユウトは安堵したのだった。

 いちばんの懸念だった仕事も早々に見つかり、当座の生活費として考えていた貯金にも手をつけずにすんだ。シゲキは口のうまさが買われて印刷会社の営業に、ユウトは容姿の良さと物腰の柔らかさが買われてホテルのベルボーイに決まった。勤務時間や休みが不規則なユウトはすれ違いを避けようと、日に一度はシゲキと食事をとることにし、節約と栄養バランスを考えて慣れない自炊にも度々挑戦していた。

 せっかく東京に移り住んだのだからと、ユウトとシゲキは休みが合うとあちこち出歩いた。アジア随一と言われるゲイタウン、新宿2丁目にも行ってみたが、ずっと抑圧的な環境で暮らしてきたユウトとシゲキは2丁目を行きかう人たちの開放的な雰囲気に気圧されて、最初に足を踏み入れたときは怖気づいて長居できず、近くのラーメン屋でつけ麺を食べて帰ってくるしまつだった。

 出かけた帰りは遠足帰りの子供の気分だった。まだ帰りたくないのに、帰らないといけない。今日という日が終わらなければいいのにと何度思ったことだろう。「今日も楽しかったな」とシゲキが笑みを浮かべると、ユウトも「な」と笑顔で応じた。
 そして、駅からマンションまでの帰り道は、たいてい今度の休みに出かける場所を検討し合うことになっていた。しかし、その日はシゲキがいつになく押し黙っていた。曲がり角まで来たところで、シゲキがさりげなくユウトの手を握った。公共の場で手をつないだのは初めてだった。好きな人と手をつないで歩く。そんな当たり前のことがようやくできるようになったんだ。
 ユウトは西の空に沈みゆく夕陽に目を奪われた。夏の終わりが近づいている。それまでモノクロにしか見えていなかった景色に色がつきはじめた気がした。

    ◇◇◇
 
 ホテルのロビーは人生の縮図だとユウトは思った。人に勧められて見たものの、当時は何が楽しいのかわからなかった映画『グランド・ホテル』を思い出す。実際にホテルで働いてみると、そんな群像劇がそこかしこで起きていても不思議でない気がしてくる。
 ユウトが勤めるホテルは高級の部類に入り、客層もある程度決まっているが、それでも1日中ロビー周りで荷物を整理したり、客を部屋まで案内したりしていると、いろんな光景を目にする。

 老紳士がひと目で娼婦とわかる女を連れ込むこともあるし、上品な中年女性の呼んだ出張ホストが間違って別の部屋に押し入って騒ぎになったこともある。女性が強引に迫られるシチュエーションを希望していたために起きた惨劇だった。

 それまで優雅に振る舞っていた男が部屋に入ったとたん、連れの女を口汚く罵ることもあったし、悪名高い政治家がホテルのスタッフへの気配りを怠らず、上客として好かれていたこともあった。“いい人”として知られる芸能人が横柄で、予約がダブルブッキングしたことを根に持ってチェックアウトまで文句を言いつづけたこともあった。ホームレスの老人かと思ったら大会社の会長で、全身ブランド物で固めた男が一文なしで支払い不能だったこともあった。

 常連客には不思議な人も多い。チェックイン時にはスーツを着ていた若い男が、次にロビー階に下りてきたときにはこなれていない女装姿で亡霊のように正面玄関から出ていく。彼は月に一度、地方から上京してきて宿泊し、仕事の合間にホテル周辺を女装姿でウロウロするのだ。また1時間もたつと、スーツに着替えてロビー階に下りてきて、ホテル内の日本料理店に消えていく。そこで取引先の相手と会食の場を持っているようだった。

 いや、“あの男”に比べたら、月イチ上京男はまだふつうかもしれないとユウトは思った。その最も不思議な客が今日もやって来たのだった。

 
 彼は正面玄関から入ってくると、必ず一度フロント正面の椅子に腰をおろす。そして、ユウトの手が空いているのがわかると立ち上がってフロントに向かい、そうでないときはユウトの手が空くのを待ってフロントに向かう。結果として、いつもユウトが担当することになるのだ。

 初めて担当したときは、部屋まで案内するとチップを渡され、話し相手を求められた。仕事に戻らないといけませんのでとユウトは断った。次に担当したときには、「先日の無礼を許してほしい。孤独な生活を送っているから、つい優しげな君に声をかけてしまった」と彼が詫びた。
 そのうち、彼は週に一度、ホテルに来るようになった。いつもジャケットをはおっているがスーツではなく、その下もTシャツだったりカジュアルシャツだったりと、ビジネス客には見えなかった。人づてに聞いた話では、ユウトの姿が見当たらず休みだと悟ると、キャンセルして正面玄関から出ていくという。「ちょっと“問題”を抱えているお客様かもしれないし、嫌なら他のベルに回すけど?」と心配してくれるフロントクラークもいた。けれど、だんだん彼との逢瀬が楽しくなってきていたユウトは遠慮なく自分に回してほしいと頼んだ。

 その客は村瀬といい、まだ50前に見えた。村瀬はチェックインをすませ、ユウトに引き継がれるとかすかに微笑む。「ご案内いたします」とユウトが一礼し、小さなボストンバッグを預かる。ロビー階を歩き、エレベーターに乗り、宿泊階に到着して部屋に着くまでの数分間がふたりの逢瀬だった。初めのうちは二、三言かわすだけだったが、しだいに取りとめもない話をするようになり、やがて個人的な話をするまでになった。
 容姿に恵まれたユウトは、見知らぬ人から値踏みするような視線を向けられるのに慣れていた。しかし、村瀬は決してそういう視線を向けなかった。ときには伏し目がちに言葉を発し、まともにユウトの顔を見ないこともあった。それでも、言葉の端々からユウトに好意を持っていることは間違いなさそうだった。

 
――今日の晩メシもバランスが取れてるかなとユウトは食卓を眺めた。実家では料理をしなかった彼も、節約を兼ねて自炊しているうちにだんだん上達してきた。
 帰ってきたばかりのシゲキが着替えて食卓についたのを見計らって、ユウトも腰をおろした。

「そういや、今日もあの客が来たよ」と言って、鶏の唐揚げにユウトは箸を伸ばした。
「へえ、そうなんだ」。シゲキはテレビを見やり、気のない返事をした。少し前まではその日の出来事を報告しあい、あるときは義憤にかられ、またあるときは大笑いしていた。それが近頃はユウトが一方的に話をし、シゲキは曖昧に返事をして箸を運ぶだけになった。

 食事をすませ、シャワーを浴びて出てきたユウトは、腰にタオルを巻いただけの格好で冷蔵庫からお茶を出した。同棲したてのころなら、シゲキが後ろから抱きついてきて腰のタオルを外し、そのまま前戯に突入していたが、最近は半裸のユウトに見向きもせず、壁に寄りかかってスマホをいじっていることが増えた。それとなく誘っても、「ごめん、疲れてる」とシゲキはつれなかった。

 多少の浮気は黙認しあってきた。正確に言うと、ほとんどの場合、浮気をしていたのはシゲキのほうだった。
 誘ってきそうな雰囲気になっても誘ってこず、ユウトが誘っても疲れているといって、背を向けて寝てしまうことが増えた。取引先との付き合いを理由に日付が変わってから帰ることも増えた。きっと、誰かとヤってきたんだろうとユウトは思ったが、あえて追及せず、シゲキが留守の間にスマホで動画を見てひとりで済ませていた。それが同棲生活を維持するのに必要な忍耐だと思ったからだ。
 シゲキと暮らしはじめてから、ユウトが浮気をしたのは一度だけだった。生活時間が合わず、シゲキとのすれ違いがつづいた時期があった。そのときに知り合った男と一度。魔が差したというやつだ。直前まで何度も葛藤し、罪悪感をかなぐり捨てて寝た結果が大味のセックスだった。好みの顔立ちでいい体をしていたが、見かけ倒しの男だった。

 
 翌週、また村瀬がやって来た。「ご案内いたします」とユウトが一礼するのに始まり、宿泊階に到着して部屋に着くまでの数分間の逢瀬だ。その日も部屋に到着すると、村瀬は「ありがとう」と言ってポケットから包みを出した。和紙に包んだチップだ。「ごゆっくりお過ごしください」とユウトは一礼して退室し、チップを制服のポケットに入れて業務に戻った。

 仕事を終えて更衣室で着替えているときに、ふと思い立って包みを開いてみた。1000円札が2枚、それに和紙の内側にボールペンでメモが書かれていた。

“いつも案内有難う。もしご迷惑でなければ、今度一緒に食事に行きませんか? あなたと“数分間”を超えてじっくりお話ししてみたいです。ご迷惑であれば、そのまま破り捨ててください。”

 その下には携帯の番号が載っていた。ユウトは考えた。帰りの電車でも、食事の支度中にも、寝る前の筋トレ中にも。ユウトの変化に疎くなっていたシゲキに「なんか考え事?」と指摘されるくらいだから、相当ぼんやりしていたのだろう。そして翌日、更衣室で制服に着替えていてボタンをかけ違えたときだった。ユウトは決心した。連絡しよう。ご一緒させてくださいと。

 うちのホテルに週一で泊まる人だ。どんなすごい店に連れていかれるだろうと戦々恐々としていたユウトの予想に反して、村瀬が指定したのは個室の居酒屋だった。好きな食べ物を聞かれ、和食が好きだと答えたことと、自分の年齢などを考えて気後れしない店を選んでくれたのかもしれないとユウトは思った。

 村瀬はホテルで会うときと変わらず気さくで、それでいてどこか浮世離れしていた。お互いの身の上を話しているうちに、ユウトは理由がわかった気がした。村瀬は働いた経験がなく、親から引き継いだ“生活には困らない程度の”不動産収入で暮らしていた。彼は長年社会と接触を持たずにいたが、両親が亡くなり、そうもいかなくなったという。
「46の男が一度も働いたことがないって、引くでしょう」と村瀬は自嘲気味に言った。

 それからも、ユウトは村瀬とたまに会うようになった。“ずっと1人で家にいると気が滅入るから”といって、彼は週に一度のホテル通いもつづけた。ホテルでは必要以上に親しげな態度をとらない村瀬にしたがい、ユウトもベルボーイとして接した。

 
 ユウトが新しい出会いに刺激を受ける一方で、家を空けることが増えた彼にシゲキは不満を募らせていた。誰と会っているんだと詰問するシゲキに、ユウトは努めて冷静に事情を説明した。
「友達のような知人のような関係で、ただ話し相手をしてるだけ。ほんとにそれだけなんだよ」
 けれど、シゲキは納得しなかった。「金持ちのオッサンとデートなんて、やってることは売り専と一緒だろ!」
「おまえと違って浮気してるわけじゃねーよ!」

 ユウトがしまったと思ったときにはすでに手遅れだった。売り言葉に買い言葉で、これまでにため込んでいたお互いへの不満をぶつけあっていた。

「ちまちま家計簿なんかつけやがって。そういうノンケの夫婦みたいな所帯染みたことは嫌いなんだよ!」とシゲキが痛罵すれば、「あれだけキラキラした都会のゲイをバカにしてたくせに、いまのおまえはなんだよ。家計に入れる以外のカネ、ほとんど伊勢丹メンズ館での買い物に費やしてるじゃねーか。見てみろよ、バカみたいに増えてく服とか靴を。結局、向こうで言ってたことって、負け惜しみだったんじゃねーの? 田舎に住んでて、カネがなくて、実家のコンビニを手伝ってるだけの冴えないヤツだったから」と応酬した。

「あの地獄から抜け出して、やっと自分らしく生きられるってなったのに、なんでいいもん着ちゃいけないんだよ? おまえこそ、なんだよ、向こうにいた頃と大して変わらない格好は。恥ずかしくて友達に会わせらんねーんだよ! ほぼ全身ユニクロでシケてんだよ! もとの素材がいいから、それでも着こなせてますよってか?」
「誰もそんなこと思ってねーよ! オレは地に足がついてるだけ。誰かさんと違って虚栄心が強くないだけ。田舎から出てきて浮かれてバカみたいに服にカネつかったりしないだけ。恥ずかしくて友達に会わせらんないヤツと、なんで付き合ってんだよ? 別れたほうがいいんじゃねーの?」
「ああ、そうだな」

 不穏な沈黙が訪れた。少しずつ噛み合わなくなっていた歯車がついに軸から外れたようだった。もう気持ちが離れてしまったのだろうか、好きだったら、極力傷つけまいとするもんじゃないだろうかとユウトは煩悶した。

 次の日もその次の日もユウトとシゲキは口をきかなかった。ようやく口をきいたのは、5日後の夜だった。

「もう別れようか」。スマホをいじっていたシゲキがぽつりと言った。
「そうだな、終わりにしよう」とユウトはにべもなく応じた。寂しいとも悲しいとも感じず、かえってせいせいしたと感じているのがつらかった。

 結局、シゲキが家を出、ユウトはそのまま残ることになった。ユウトの収入でも払える家賃だったし、稼ぎがよくなったシゲキはもっと見栄えのするマンションに越したがった。正味1年。短くも濃い同棲生活だった。

    ◇◇◇

 シゲキが出ていった翌週、ユウトは村瀬から自宅に誘われた。いまだにそんな“誘い”は受けていないが、自宅に上がるのであれば今度こそはわからない、とユウトは逡巡した。村瀬は積極的に寝たいタイプではない。中肉中背で、目が大きくて童顔。魅力がないとは言わないが、ユウトのタイプではなかった。

 村瀬の家は渋谷区の閑静な住宅街にあった。実家のあたりなら、特段大きな家ではないが、東京の一等地でこの屋敷を維持するのは大変だろうとユウトは思った。
「うちがいちばん落ち着くのでね」といって、村瀬はユウトにスリッパをすすめた。「どうぞ、入って」
 応接間には民芸調の応接セットが置かれ、壁には古めかしい油絵が飾られていた。しばらくすると、村瀬自らお茶のセットをお盆に載せて運んできた。通いの家政婦は休みらしい。
「お酒のほうがよかった?」
「いや、まだ昼ですし、いいですよ」
 部屋には光がふんだんに入り、花瓶には明るい花が活けてあった。それなのに家のなかが寒々しい感じがするのは、村瀬から親の愛情を知らずに育ったという話を聞いていたせいだろうか、とユウトは思った。

 不動産収入で安泰とあって、村瀬の父親は愛人をつくって家庭を顧みなかったという。子供嫌いだった母親も彼に関心を示さず、観劇や買い物にと出歩いてばかりいた。彼の世話を担っていたのは、家政婦の“ヨウコさん”だった。彼はヨウコさんだけになつき、母親が気まぐれで彼に構おうとすると、そっとヨウコさんの背中に隠れるようになった。母親はそんな彼を見ると、「ふんっ、かわいくない子ね」と捨て台詞をはいて自室に引き上げていった。
 ヨウコさんが夕飯の支度をしていると、母親と子供のそれのように村瀬は学校での出来事を報告した。夕飯のおかずが好物のハンバーグだと知ると、嬉しさのあまり彼女の背中に抱きついた。すると、ヨウコさんは「あらあら、危ないから離れてらしてください」と笑って調理用の椅子を持ってきて彼を座らせた。
 ヨウコさんはそんな彼を慈しむ一方、家政婦という立場を忘れはしなかった。母親がいるときはあくまでも脇に控え、彼にも母親と交流を持つように常々促していた。「ぼっちゃん、お母さまが遊ぼうとおっしゃったら、そうなさらないといけませんよ」。“せめてぼっちゃんが社会に出るまでは”とヨウコさんは心に誓った。
 しかし、彼は就職活動に失敗し、しだいに引きこもりがちになり、両親にも疎まれ、離れで暮らすようになった。ヨウコさんの彼への思いは、“せめて体が持つうちは”という使命感に変わった。彼が離れに引きこもるようになってからもヨウコさんは毎日食事を運び、その度に二、三言、言葉をかわすのが常だった。ヨウコさんのおかげで自分は生き延びたと彼は述懐した。

「いまでいうネグレクト、育児放棄だよね」。訥々と話し終えた彼は寂しげに笑った。「でも、“よそのお宅のこと”といって、当時は口出しする人が少なかったな。貧乏ではなかったから、悲愴感もないし、周りも気にとめてなかったのかもしれない」
「うちは父親が工場勤めで、母親はモールでパート。それでも生活はカツカツでしたよ」とユウトは苦笑した。「就職活動は続けなかったんですか?」

 村瀬は宙を見つめた。過去を振り返るときの彼の癖だった。「僕が学生のころはバブル景気で、就活も売り手市場でね。周りの人たちは就活を始めてすぐ内定をもらってたのに、高望みもせず、自分に見合った会社を受けてた僕はなかなか決まらなかった。そうすると、自分は社会にとって有用ではないんじゃないかと自信がなくなってしまって。大学でも友達は多くなかったし、その多くない友達も社会に居場所を見つけ、会社で出世し、家庭を持つようになった。その現実を知るにつけ、どんどん取り残されていく感じがして、劣等感まみれになって、年を重ねるごとに表に出る機会も意欲も削がれていった」

「親に愛されたと思う?」というと、村瀬は緑茶をすすった。彼は話題の切り替え方が独得で唐突な印象があった。長年引きこもっていて、人と密に会話をしてこなかったせいではないかとユウトは睨んでいた。
「わからないですね。虐待はされなかったけど、愛されてた感じもしない。それなりの年になって、結婚して、子孫を残すのが昔からつづく掟だからやってるという感じで、子供を育てるみたいな意欲はなかった気がします。元担任にアウティングされて、ゲイだとバレたときも世間体がどうのって迷惑そうでしたし。でも、父親はどうだろう。どうにか理解しようとしてたのかな」
 ユウトはいまさらながら、喧嘩腰のカミングアウトを回想した。あの“女になりたいのか?”から始まった一件だ。知的ではないし、情報も持っていなかったけど、オヤジなりに息子を理解しようとしていたのだろうか。
「父親に大学進学を阻まれて高卒で就職せざるをえなかったのも、いまだに納得がいってないんですよね。奨学金を借りて自宅から通うっていっても、ダメだと言って」

 オヤジは息子が自分を越えるのが怖かったのかもしれないとユウトは思った。貧しい生まれで、ろくに勉強もできず、田舎から出ることもできず、カネを稼ぐ手段が限られていた自分と、それを越えようとする息子。越えられたら親として立つ瀬がないと思ったのではないか。息子には自分より上の暮らしを送ってほしいという思いより、男のプライドみたいなものが勝ったのではないか。だとすると、息子への愛より自己愛のほうが強かったのではないか。そんなことを考えているうちに、愛ってなんだろうという途方もない命題がユウトの脳天にのしかかってきたのだった。

 
 いつしかユウトは休みのたびに村瀬の家を訪ねるようになっていた。
 あるときは出前を取り、またあるときは食事に出かけ、そしてあるときは村瀬自身が料理の腕をふるった。
「うちのお手伝いさん、掃除は完璧なんだけど、料理がぜんぜんダメで。それで見よう見まねで作るようになったんだけど、レパートリーが少ないからすぐ1周してしまうんだ」 と村瀬は照れくさそうに笑ったが、出させる料理はなかなかどうして悪くなかった。

 しかし、11月に入ったばかりのその日は村瀬の家に向かわず、最寄り駅で待っていてほしいとのことだった。ユウトが待ち合わせ時間の5分前に到着すると、黒いコートを着た村瀬はすでに改札前で待っていた。これは毎回、ユウトが感心する点だった。村瀬は社会人経験がないわりに、誰よりも時間を厳守するのだ。
 スーパーに入ってユウトがかごを持つと、村瀬はメモを見ながら次々と食材を入れていった。玉ねぎ、卵、パン粉、合い挽き肉を入れたところでユウトはピンときた。これはハンバーグの材料だ。
 スーパーを出た村瀬は、自宅とは逆方向に歩き出した。不可思議そうな顔をするユウトに、村瀬は「ああ、ごめん。言い忘れてた」と言って説明を始めた。今日は自宅ではなく、ヨウコさんちに行くのだという。

 ヨウコさんも高齢になり、数年前に引退した。彼は長年の感謝の気持ちをこめて、所有するマンションの一室をヨウコさんに無償で貸していた。いまは悠々自適の暮らしを送っているという。
「でも、いかんせんいい年だから心配でね。たまに様子を見にいくんだよ。誰かのために何かすることが彼女を元気にするみたいで、いつも食事を作ってもらうんだ」
 マンションの玄関で出迎えてくれたヨウコさんは、ユウトの予想に反して背の高いすらっとした人だった。
「あら、ぼっちゃん。まああ、今日はお友達まで」とヨウコさんは朗らかに会釈した。村瀬が事前に連絡していたはずだが、ヨウコさんはすっかり忘れていた。
「材料買ってきたんだけど、ハンバーグ、作ってもらえるかな」
「ええ、ええ。もちろん、よろこんで」

 ヨウコさんの案内に従い、村瀬とユウトはキッチンに向かった。村瀬はユウトから買い物袋を受け取ると、ヨウコさんが料理しやすいように調理台に材料を並べていった。
「朝のお片づけが済んでなくて、お恥ずかしいわ」というと、ヨウコさんは手早く食器を洗いはじめた。コンロの上には卵を焼いたらしいフライパンも載っている。その他もどことなく雑然としていた。コンロの脇の調味料ラックに茶筒が混じっていたり、冷蔵庫の上にエアコンのリモコンが置いてあったりする。村瀬から聞いていた、しっかり者のヨウコさん像との食い違いにユウトは戸惑った。

「最近は、僕も料理をするようになったから」といって村瀬はヨウコさんを手伝いはじめた。こうして並んだ姿を見ると、本当の親子のようだとユウトは思った。むしろ、村瀬にアルバムを見せてもらったときに写っていたキツい感じのする実母より親子らしい雰囲気が漂っていた。

 しばらくして出てきたハンバーグは見るからに美味しそうだった。付け合わせには粉吹き芋とニンジンのグラッセ、それにインゲンのバターソテーが添えられ、別皿にパセリライスが盛られていた。ひと口食べたユウトは、これが昭和の“正しい味”なのだろうと思った。友達の祖母の家に行ったときに、本棚をあさっていて見つけた料理本に出てきそうだった。“ラタテイユ”や“シテュー”と並んで、“ハンブルグステーキ”という名称で載っている。レシピの説明文は丁寧語で独得の字体で書かれているのだ。

「今日は旦那様と奥様は?」。食事を終えてコーヒーを飲んでいると、ヨウコさんがふいに尋ねた。さも不思議そうに、なぜかしらという表情で。
「父さんと母さんは長旅に出てるんだよ。ヨーロッパのほうに」と村瀬は何食わぬ顔で応じる。眉根をよせるユウトに、村瀬は牽制するように伏し目がちに首を小さく振った。
「まあ、そうですか。ヨーロッパ、ようございますね。古いお城もご覧になられたりして」
「たぶん、見てくるんじゃないかな」
「お土産話が楽しみですわね」
 そんな奇妙なやり取りを何度か繰り返し、村瀬とユウトはヨウコさんちを後にした。

 聞くべきか否かユウトが迷っていると、村瀬が曲がり角まで来たところで言葉を発した。
「なにか変だと思わなかったか? ヨウコさんの様子」
「なんでここにエアコンのリモコンが、なんで亡くなってるお父さんとお母さんの話が、とは思いましたね」とユウトがうなずくと、村瀬は顔を曇らせ、深くため息をついた。
「彼女、認知症の診断が下りててね。何年か前から物忘れが出はじめたんだけど、最近とみに目立つようになったんだ。料理を手伝ったのもそれが理由。もともと料理上手な人だったんだけど、ちょっと前に味つけがおかしいと気づいて」
 ユウトがかける言葉もなくうつむいて歩いていると、村瀬はそっとユウトの肩に手を回した。ほんの一瞬のことで、村瀬はまたすぐに手を下ろした。
「今日は君がいてくれて助かった。少しずつ症状が進んでいく彼女を見るのはつらくて」と村瀬は吐露した。「まだ大丈夫な気はするけど、この先、ひとり暮らしが難しくなったら、24時間看護サービスかケア付きの老人ホームを手配しようと思ってるんだ」

 翌年、ヨウコさんはケア付きの老人ホームに入居した。村瀬は週に2回は見舞い、ユウトも2回に1回は付き添った。スタッフは事情を察しているようだったが、他の入居者は「息子さんとお孫さんがしょっちゅう来てくれるなんてお幸せね」とヨウコさんを羨んだ。
 ヨウコさんは徐々に記憶が衰え、ユウトを見て「ぼっちゃん」と声をかけることが増えた。「いや、ヨウコさん、僕はこっち」と悲しげに笑う村瀬を見ていられず、ユウトは同行しても談話室で待つようになった。そして、面会の最後のほうに顔を出し、村瀬のいとこの子供という触れ込みで挨拶する。それが村瀬のためでもあり、ヨウコさんのためでもあるとユウトは考えたのだった。

 
 空が高く晴れ渡り、広葉樹の色づきが見事になった秋のある日、ヨウコさんは眠るように息を引き取った。秋はヨウコさんがいちばん好きな季節だった。
 村瀬は悲嘆にくれ、この世の終わりのように沈み込んだ。ユウトがなだめても効果はなく、ヨウコさんの遺骸の手を取ってさめざめと泣きつづけた。村瀬がユウトの前で感情をあらわにするのは初めてだった。

 ヨウコさんに身寄りはなく、村瀬とユウト、ふたりで見送ることになった。斎場は村瀬のたっての希望で特別殯館を手配したが、参列者が2人の葬儀に特別殯館のホールはあまりに広かった。そのがらんとした空間がふたりの空虚感をあおり、村瀬は茫然としていたかと思えば涙を流し、涙が止まったかと思えば茫然とした。
 火葬炉の前まで来ると、村瀬は棺にすがって声を上げて泣き出した。無理に引き剥がすわけにもいかず、困り果てた職員が懇願するようにユウトを見つめた。ユウトはありとあらゆる言葉で村瀬をなだめ、どうにか棺から引き剥がした。

「集骨まで控室でお待ちください」。そう職員に促されても、村瀬は炉の前を離れようとしなかった。かすかにゴーッという燃焼音が聞こえてくる。
 憔悴しきった村瀬が虚ろな目で語り出した。「親が相次いで亡くなったときは、あ、死んだんだとしか思わなかったんだ。悲しいともつらいとも感じなかった。ただ、亡くなったという事実を淡々と受け止めた感じで、相続はどうしたらいいんだろうという現実的な問題が真っ先に頭に浮かんだ」というと、村瀬は下唇を噛み締めた。「人の死が、こんなにつらいなんて思いもしなかった」

 ユウトが所在なく豪奢な炉の扉を見つめていると、「天涯孤独になったんだな」という村瀬のつぶやきが聞こえてきた。そのつぶやきは斎場の空虚な光景とともに、ユウトの脳裏に鮮明に焼きついたのだった。

 
 ヨウコさんの葬儀からひと月あまりたつと、彼女の遺品整理をすると村瀬が言い出した。いつか戻ってくることを期待して、老人ホームに入居後も晩年住んだマンションはそのままの状態にしてあった。

 村瀬が何度か足を運んでいたこともあり、夕方までにはどうにか片づきそうだった。こぢんまりとした2DKの室内には、そこかしこにヨウコさんの暮らしの痕跡があった。認知症が進行するにつれて、不安や混乱が大きくなっていったのだろう。冷蔵庫の奥から認印が出てきたり、たたんだ布団のあいだから乾物の昆布が出てきたりと、彼女の苦悩を物語っていた。

 押入れの天袋を整理していたユウトは、漆塗りの文箱を見つけた。
「これはなんだろう?」
 踏み台がわりの椅子から降り、畳の上に文箱を置いた。箪笥を整理していた村瀬がやってきて膝をつき、両手で蓋を持ち上げた。そこには、ヨウコさんの思い出の品が詰まっていた。若い頃の写真もあれば、達筆すぎて判読できない手紙の束もあった。
「“いい人”がいたと聞いたことがあるけど、その人との手紙かな」

 ひとつひとつ取り出し、畳の上に並べていた村瀬の手がとまった。ユウトが背後からのぞきこむと、子供が描いたとおぼしきヨウコさんの似顔絵が文箱に収まっていた。その横には少し黄ばんだガーゼのハンカチ。何か包まれている様子だった。村瀬が包みを開くと、折り紙で作ったメダルが出てきた。真ん中に“いつもありがとう”と書かれ、首から下げられるように緑のリボンがホッチキスで留められていた。

「これ、僕が小学生のときにプレゼントしたものだ」。村瀬はこみ上げる涙をぬぐい、泣き笑いの表情になった。「授業でお母さんの絵を描きなさいって言われたんだけど、母親の絵を描くのが嫌でね。最初は角が生えた姿を描いたんだ。こっちとしてはふざけてるつもりはなかったんだけど、教師にはふざけないで描きなさいって叱られてさ。腑に落ちなかったから、母親の絵は適当に描いて提出して、その日うちに帰ってから丁寧にヨウコさんの絵を描いて、メダルと一緒にプレゼントしたんだ」
「角が生えたのはひどいなあ」とユウトは言ったものの、写真で見た村瀬の母親を思い出し、確かに似合いそうだと忍び笑いをもらした。「でも、ヨウコさん、嬉しかったと思う」
「『まあまあ、いただいてよろしいんですか』ってあの調子で微笑んでたよ」と、村瀬はまた宙を見つめて思いをめぐらした。

    ◇◇◇

 ある晩、ユウトは風呂に浸かりながら、村瀬とオレの関係って何だろうと考えた。ガス代と水道代を節約するため、浴槽に湯を張るのは週に一度の贅沢。その贅沢なひとときに浮上した議題が“村瀬とオレの関係”だった。

 気がつけば、村瀬との付き合いも4年近い。

 ユウトは村瀬から小遣いをもらうことはなかった。せいぜい、外出時や外食時、それにスーパーで買い物したときに村瀬がカードを切るぐらいだ。もし困ったら援助するとは言われていたが、自分の稼ぎで生活はまかなえたし、援助を受けたらただのパトロンと愛人だと思って頑なに避けていた。

 肉体関係もないわけではなく、ユウトは村瀬の家を訪ねるたびに肌を合わせた。意外なことに、最初に誘ったのはユウトのほうだった。いつも世話になっている義理もあったが、情欲を越えて村瀬を知りたいと思ったのだ。村瀬との初めてのセックスは皮肉にも過去のどれよりも興奮した。「経験がないに等しい」と村瀬は恥じたが、必ずしも数だけの問題ではないんだとユウトは彼を通じて学んだ。

 見る見るうちに“上達”したのはセックスだけではなかった。知り合った当時は浮世離れしていて、話すのもおどおどしていたのに、いつの間にか甘い台詞をサラッと吐くようになっていた。自分は敬語からタメ口に変えるまで何度も葛藤したのに、なんだか釈然としない。知らず知らずのうちに形勢が逆転してしまったとユウトは感じた。近頃は他の男と一度かぎりの関係を持つこともなくなり、村瀬との関係だけを満喫するようになっていたが、かといって恋人と呼ぶのもためらわれた。

 一方で、村瀬が母親のように慕っていたヨウコさんの見舞いにも行き、葬式にもなかば親族として参列し、遺品整理まで手伝った。彼はいまでも週に一度、ホテルに泊まりにくる。その際にはあくまでも客として振る舞うし、ユウトもベルボーイとして接する。ちょっとしたシチュエーションプレイの気分だ。部屋まで案内したところで村瀬がユウトを壁に押しつけ、「チップをお忘れですよ」とポケットに包みを入れることはあったが、それがギリギリのラインで仕事中に一線を越えることはなかった。

 じゃあ、いったいなんなんだ。ユウトは頭まで湯船に浸かり、しばらく浮いてこなかった。

 
 村瀬の50歳の誕生日の夜、彼の希望でユウトは食事を作ることになった。ブリの照り焼きに、小松菜の煮びたし、冷奴、それにごはんと味噌汁。ハレの日に相応しくないありふれた家庭料理だったが、村瀬は嬉々として箸を運んだ。食後に村瀬が出してきたチーズとクラッカー、それに白ワインが唯一誕生日らしさを演出するものだった。
「棚の奥で眠ってたやつ。たまには使ってやらないと」と言って、村瀬は江戸切子のワイングラスをソファーテーブルの上に2つ並べて置いた。

 村瀬がワインを注ぎ終わったのを見計らい、ユウトはグラスを持った。“50歳おめでとう”とユウトがふざけて言うと、村瀬ははにかみ、“50歳か……”と感慨深げにつぶやいた。
「あっという間だ。50年なんて」
「半世紀だよ」
「ああ、世紀単位で言われると、よけい長大に感じる」。村瀬はうなだれた。「引きこもってた分の時間を差し引きできないかな。そうすれば、30歳ぐらいになるんだけど」
「無理だって」とユウトは笑った。
「でも、長いこと引きこもってて、毎日家のなかにいると、時間感覚がおかしくなるんだよ。何年も前のことがつい先月のことに思えたりして」
 ユウトには到底わかりえない感覚だった。休みの日でもずっと家にいるのは気詰まりで、コンビニや何やと必ず表に出るタチだった。
「本当の意味で生きてなかったんだろうな。でも、ユウトと知り合って、ようやく時間が動き出した」というと、村瀬はユウトを見つめ、顔を引き寄せてキスをした。ユウトも積極的に舌を絡める。そろそろ次の段階に進みそうなところで、村瀬はさり気なく切り上げた。

「知り合って4年?」。グラスにワインを注ぎたしながら村瀬は言った。
「だいたいそのくらい」とユウトはうなずく。
「僕らの関係って、しいて言えば何だろう」
「恋人のようでもあり、友達のようでもあり、同志のようでもある、定義が難しいな」
「だよね。定義が難しい。恋人、友達、同志、それらを合わせたような、あるいはそれらを超越した関係なのかもしれない」というと、村瀬は黙り込み、やがて口を開いた。「この先も一緒にいてほしいと言ったら、いてくれる?」
 今度はユウトが黙り込む番だった。ワインを1杯飲んだらことを始めるんだろうと考えていた彼にとって、予想外の展開だった。目をしばしばするユウトを見て、村瀬の顔が一瞬、好色にゆがんだ。
「正直、いますぐ押し倒したいぐらいだけど、今日は話したいことがあるから、それは後」 。村瀬は大きく息をついて、先をつづけた。「もしユウトの気持ちも一緒であれば、僕はこの関係を発展させたい」
「同棲とか?」とユウトは尋ねた。
「うん、まずはそこからスタートでもいいけど、いままでどおり別々に住んでも構わない。それとは別の話なんだ」

 ユウトはますます混乱してきた。村瀬は何の話をしているのだろう。「同性婚の別居婚とか、ややこしい話でもないよね?」
「それは斬新なアイデアだ」と村瀬は笑った。「確かに同性婚が手っ取り早いんだけど、日本ではまだ先の話になりそうだし、形だけの結婚式を挙げるのも違う気がする」
「それはオレも同感」とユウトはうなずいた。
「ひとつのケジメにはなるかもしれないけど、結婚は究極の現実だからね。セレモニーでは超えられない問題もある」というと、村瀬はひと息ついて切り出した。「まわりくどくなってごめん。僕と養子縁組する意思があるか聞きたかったんだ」
「え?」。青天の霹靂の逆って、なんて言うんだろうとユウトは思った。
「なぜこんなことを考えたかというと、君も知ってのとおり、僕には不動産を含めた資産がある。僕が死んだら、顔も知らなかったような親戚が名乗り出てくる可能性も否めない。その対応策として、万が一の場合には君に委ねるという内容の遺言書を作成しておくこともできるにはできる。でも……」と言葉を切ると、村瀬はいったん視線を落とし、覚悟を決めたようにユウトに向き直った。「僕が心から愛する人は君だけだ。養子縁組をするとなると、自動的に年長者が親、年少者が子になるから、仮にそうなれば僕とユウトは法的には親子になる。実際、年齢的にはそれでもおかしくはないんだけど、嫌だというなら……」
「オレも愛してる」
「いまなんて言った?」
「愛してる」。そうユウトが言うやいなや、村瀬は彼の唇を奪った。今度はユウトが押し返す番だった。「ちょっと待って、ちょっと待って。でも、オレに財産をもらう権利があるのかどうか……」
「ユウトは欲がないな」と村瀬は笑った。「君は僕に人生の意味を教えてくれた。止まっていた時計の針を動かしてくれた。それにはすごく大きな価値があるんだよ」
 ユウトは言葉もなく、ワイングラスをじっと見つめた。
「君を縛るつもりはないんだ。いまの仕事を続けたいなら続けて、のんびり暮らしたいならうちでのんびりすればいい。軽い浮気程度なら目をつぶるし、勉強したいならその分の学費は出す」。そして、村瀬は絞り出すような声でつづけた。「伴侶になってほしい。でも、それ以上に家族になってほしい。お互いを敬い、支え合う関係の家族に。この先、一緒にいてくれる家族になってほしいんだ」

――その夜、ユウトは心地よい疲労を感じながら、村瀬のベッドでまどろんでいた。背後から抱きつかれ、ふと目を開いた。
「起きてる?」
 耳もとに村瀬の吐息を感じる。ユウトはかすかにうなずいた。
「一生を左右することだから、1ヵ月でも1年でも納得がいくまで考えて。それまで待つから」
 でも、ユウトの答えは決まっていた。夢うつつを行き来し、薄れゆく意識のなかで言葉をつむいでいた。
“何人もと関係を持ったけど、月日を経るごとに愛着が深まって、離れがたくなって、ずっと一緒にいたいと感じる人はあなただけだったよ。”

    ◇◇◇

 ふたりが正式に“家族”になった日、村瀬とユウトはお祝いを兼ねて新宿2丁目に繰り出すことにした。行ったことがないという村瀬をユウトが連れ出したのだった。ユウト自身、久々の来訪だった。

 50歳にして初めて2丁目に足を踏み入れた村瀬は興味津々だった。男同士が抱き合う絵柄のポスター、黄色い声を上げて練り歩くゲイ友集団、もつれ合いながら歩くレズビアンカップル、二次会に向かう男女の会社員を見ては感心する村瀬に、ユウトはそれとなく解説した。「大昔はクローズな空間で、もっと暗い雰囲気だったらしいけど、時代が変わってどんどんオープンになってきたみたい。オレが初めて来たときにはもうこんな感じだったし。でも、ノンケや女の出入りを毛嫌いする古参のゲイもいることにはいる」

 ユウトは前に何度か通ったバーを探したが、その雑居ビルの2階にはすでに別な店の看板が出ていた。相変わらず新陳代謝の激しい街だとユウトは思った。
「なくなってる。困ったな」
「ほかに知ってる店は?」と村瀬がビルを見上げながら言った。白かったはずの外壁は煤けて黒ずんでいた。
「うーん、ああ、あそこがあるか」と言ったものの、ユウトはどこか乗り気じゃなかった。「いろいろ因縁のある店なんでね。迷うところだけど、とりあえず行ってみるか」

 角をひとつ曲がり、レンガ色のビルが見えてきた。看板を確認すると、幸いにしてその店は健在だった。ユウトは村瀬とともにエレベーターに乗り込み、3階までのぼる。ドアを開けると、ママが大仰なオネエ言葉で出迎えてくれた。
「いらっしゃーい」
 やっぱり覚えてないなとユウトは思った。当然だ。最後に来たのはもう何年も前だ。そのママの手前に自分を凝視する男がいた。
「ユウト……」
 シゲキだった。いても不思議ではなかった。この店はシゲキのお気に入りで、ユウトも何度か一緒に訪れていた。
 シゲキはカウンターの入り口近くで飲んでいた。相変わらず着崩しているようで全身隙のない格好だ。体を鍛えたのか着こなしも幾分スマートに見える。彼の隣には20歳前後の若い男が座り、探るようにユウトを見ていた。
「ああ、久しぶり」と手を小さく挙げてみせたが、その先の言葉がつづかない。村瀬にどう紹介すべきだろう。結局、ユウトは事実だけを伝えることにした。「こちらは、シゲキ。オレが東京に住むきっかけを作ってくれた人」
 村瀬はピンときた様子だったが、そこは大人の分別で会釈するにとどめた。「はじめまして。村瀬です」
 シゲキの隣に座った若い男は意味がわからず、面白くなさそうにグラスを傾けている。ユウトとシゲキのあいだに“過去”があることだけは感じ取ったのだろう。

「隣に座れよ」
「ああ、じゃあ」
 シゲキの誘いに応じてユウトは椅子に腰を下ろした。背もたれのない木製のベンチがカウンターに面して並んでいるのも変わらない。若い男は左端に移り、村瀬が右端に、ユウトとシゲキは必然的にその間に並んで座った。
「珍しいな、おまえが2丁目に来るの」
「まあ、今日はちょっといいことがあったから、そのお祝いに」とユウトは曖昧に答えた。詳しく話す必要はないだろう。もう過去のことだ。
 何を飲むかママに聞かれた村瀬が、やや声を張り上げた。「今日はお祝いなので、みなさんに1杯ずつご馳走させてください」
 店内に歓声が広がったが、大半を占めたのはママの声で、ユウトたちの他に客は2人しかいなかった。
「お祝いって、なんのお祝い?」。横一列に並べたグラスにシャンパンを注ぎながら、ママが村瀬とユウトの顔を交互に見つめた。
「いや、ほんとちょっとしたことなんで」とユウトが笑って受け流すと、ママは大仰に嘆いてみせた。
「ええー、ちょっとってなによぉ。気になるわー」と言いながら、ママはカウンター内を移動して手際よくグラスを配って回った。「ちょっと、“女王”、アンタもお相伴にあずかりなさいよ」
 うつむき加減にスマホをいじっていた若い女が、ハッとしたように顔を上げた。「うん」
「みんな持ったわね?」とママの視線が一巡する。「なんだかわからないけど、いいことがあったおふたりにカンパーイ!」
 楽しい夜だった。ユウトとシゲキはたわいもない話をしては腹を抱えて笑い、村瀬はそんな2人を眺めながらママと懐かしのアニメ番組について語っていた。チヤホヤされなくなった若い男は不貞腐れて出ていったが、「まあ、ああいうヤツだから」とシゲキは気にとめなかった。

 店を出るころには明け方になっていた。駅に向かうというシゲキを、村瀬とユウトは新宿通りまで出て見送ることにした。
「じゃあ」
「ああ、じゃあ」
 シゲキは手を振りながら後ずさり、正面から射す朝日に目を細めた。やがてシゲキは小さくうなずいた。ユウトも小さくうなずき、村瀬も会釈すると、シゲキは駅のほうに向き直って歩き出した。
「それでは、息子よ、僕たちも帰ろうか」と村瀬がおどけてユウトの肩に手を回した。
「はい、父上」とユウトも笑って応じる。
 タクシーをつかまえ、2人で乗り込む。タクシーはスムーズに進み、先に駅に向かったはずのシゲキに追いついてしまった。どんな顔をしているだろうとユウトは案じたが、思い切って振り返ると、シゲキの顔もまたいきいきと輝いていた。軽く手を振り合い、彼らはそれぞれの道を歩みはじめたのだった。