鬱をこじらせていました

 長らくご無沙汰しておりました。当ブログ運営者の藤永です。

 長いことブログを放置していたのには訳がありました。もっとも、放置の最たる原因は、惰気満々でソファとベッドを往復し、見るともなしにNetflixのドラマを眺めて時間を浪費していたことにあります。ですが、ソファとベッドを往復するにいたった遠因を挙げるならば、体調不良という事実は見過ごせず、またその内訳を告白するならば、鬱が大部分を占めていることも事実でした。

 もともとメンタルが強いほうではなかったのですが、鬱になる前は自分の機嫌を取りつつ、無為に時間を過ごすことでバランスを取ったりしていました。ところが、以前住んでいたマンションの騒音問題、人間関係のストレスなどが重なり、いつしかささいなことから不安に駆られたり、ふさぎ込んだりするようになりました。無駄口をたたくことにかけては誰にも負けないわたしが、です。

 幸い、身内にメンタルヘルスに明るい人間がいることもあり、医師に薬を処方してもらいつつ、身内からは認知行動療法らしきものを受け、ふつうに暮らすには問題ないところまで回復しました。最悪期には、日がないちにち横になって起きられなかったことを思えば、1歩と言えないまでも半歩ほど前に進んだのでしょう。

 よく鬱は心の風邪だといわれますが、自分がなってみてはじめて、言い得て妙だと感じました。風邪だと思って甘くみていると、またたく間に悪化して、取り返しのつかない状態になってしまう。こじらせるとなかなか治らない、まさに風邪のようです。

 小さなことにいらだったり、突然、他責的な感情に襲われては、このまま人格が崩壊してしまうのではないかと戦々恐々となることもしばしばでした。そして、なにより驚いたのは、孤独を恐怖するようになったことです。“孤独は自由の代償”と甘受していたのに、自宅でひとりでいることはおろか、角のポストまで郵便物を出しにいくことすら不安でたまらず、孤独由来の空虚さに見舞われるのでした。この孤独を恐怖する心理は症状がやわらいだいまも変わらず、ひとりで外出する機会はめっきり減ってしまいました。いやはや、この先、ひとり散歩やひとり旅を楽しいと思える日々は戻るでしょうか。

 なぜこのような記事を書こうと思い立ったかといえば、春先からのコロナ禍が近因・遠因と思われる自殺が増えているからです。複数の芸能人の自殺など、ウェルテル効果が疑われる悲劇も相次いでいます。メンタルの落とし穴はそこかしこに潜んでいます。ふつうに暮らしていたかと思えば、ある日突然、むなしさや厭世観に駆られ、または得体の知れない不安に駆られて、その足を死へと向かわせます。もともと病み気味の人なら、足取りもひときわ早くなるでしょう。

 人一倍メンタルの丈夫な知人が多忙を極め、みるみるうちにおかしくなっていったのも、メンタルヘルスについて考えるきっかけとなりました。彼女は多忙にもかかわらず、日課のジム通いをやめず、知らず知らずのうちに自分を追い込んでいきました。やがて非現実的な不安を訴え、ふさぎ込むようになりました。その様に既視感がありました。10年ほど前に自殺した父の、死去半月前の様子そのままだったのです。知人に、いまの状態は亡くなる直前の父と同じだから、すぐさまジム通いを中断し、心療内科を受診するよう進言しました。ようやく自分がおかしくなっていると気づいた彼女は、自分の状態を文章に書き起こし、心療内科を受診するころにはだいぶ落ち着きを取り戻していました。

 過去の記事でもたびたび触れてきましたが、わたしの親族には自殺者が多く、父方・母方、双方を合算すると、面識のある人だけでも5名にのぼります。鬱の寛解と再発を繰り返し、行方不明になった数週間後に山中で遺体で発見された母方の伯父。警察のマル暴の部署に配属され、職務と組織にもまれて病んだ母方のいとこは、寛解したと思った矢先、帰省していた実家の自室で命を絶ちました。そして、宮城在住だった父は、東日本大震災直後の心労と祖母の介護疲れから、ひと月足らずでメンタルの螺旋階段を駆け下り、自殺にいたりました。

 ここまで書いておいてなんですが、ひとつわたしの立場を明らかにしておかなければなりません。わたしは、哲学的な自殺には消極的肯定派の立場ということです。生誕とは、一時の性的快楽や、実子をもちたいという男女のエゴの所産です。自ら望んで生まれてきたわけではない以上、自ら人生に幕を引く自由もあると考えます。ただ、それもメンタルヘルスが健康と言える場合のみです。メンタルヘルスが健康なときに人生に幕を引く決断をし、実行に移すケースがはたしてどの程度あるかわかりませんが、おそらく幕をひくときはメンタルが不調な場合が大半でしょう。

 不調なときは、ふいに奈落の扉が開きます。扉の向こうには、こちら側よりはるかに気苦労の少ない世界が広がっています。扉をくぐったら、いま抱えている不安や疲労、厭世観は消えるでしょう。ただ、その先は何を信じるかによりますが、特に信仰がなければ、ブラックアウトで終わりです。つらいことも、楽しいことも、美味しい食べ物を口にすることも、大切な人の笑顔を見ることも、趣味に興じることも、科学技術の進歩を目の当たりにすることもなくなります。そう考えると、扉をくぐるのが惜しく感じられます。

 最後にみなさんにお願いです。メンタルヘルスの問題を抱えている方や予備軍の方は、メンタルヘルスの問題なら心療内科へ、経済的な問題なら行政や困窮者支援団体、または法テラスや弁護士事務所へ足を運んでください。きっと解決の糸口が見えてきます。また、身近にそう感じられる方がいたら、心療内科、行政、支援団体、法的解決などの手段があることを伝えてください。相手のプライドを傷つけないよう言葉を選んでいただくとなお結構です。

 

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