持たない彼女と、捨てない私

 部屋の中央につまれたダンボールを見て、ふと思う。いったいこの荷物はどこからきたのだろうか。私が長年ため込み、処分しそこねた物なのだろうが、記憶の片隅にすらとどまっていない物も多く、いったいどこから降って湧いてきたのかと首をかしげる。引っ越して4ヶ月たってもなお、日の目を見ないものもあり、それらはおそらくこの先も必要とされることはないだろう。

 クイックルワイパーを握りしめ、ダンボールタワーの周りを迂回して掃除するくらいなら、ぜんぶ処分したほうがいいのではないか。山村の分校の木造校舎の廊下のように、端から端まで一直線に拭き掃除をしたら爽快にちがいない。お掃除ロボットだって迎えられるかもしれない。でも、上階の騒音問題が解決せず、早晩引っ越すつもりでいるのだから、そのときにまとめて処分したほうが無駄がないのではないか。

 そうして重い腰が上がらない私に、物をもたない身軽さを暗に示す人があらわれた。いや、もともといたのが、最近になっていやに目にとまるようになったのだ。

 
 姉の家に行くと、必ず物をもたない暮らしに思いをめぐらすことになる。彼女の家は物がなさすぎるあまり、まるでがらんどうの倉庫のように音が反響する。構造上の問題ではなく、音を吸う家具や布類がほとんどないのだ。1階部分で表に出ているのは、2人用のテーブルとソファチェアぐらいのもの。衣類や荷物はすべて作りつけの収納にしまわれ、2階にいたっては、窓にカーテンが下がり、部屋の隅にゴロ寝用のクッションが2、3つ置かれている以外は何もない。

 姉が住んでいる家は、もともと私がネットで見つけた物件だった。年季の入った小さな戸建てで、昭和で時が止まったかのような佇まいだ。しかし、都心という流動性の高い地域にあって、その区画は古くから住んでいる年輩者ばかり。知らない環境に入っていくのが苦手な私は断念し、かわりに順応力が人一倍高い姉に勧めたところ、内見にいったその足で入居申込書にサインしてくるという早業だった。

 学生の頃から物をもたない暮らしをよしとしてきた姉の性向は年々強まり、今回の引っ越しに際しては小さな本棚まで処分してしまった。表に据え置く家電は小さな冷蔵庫とオーブンレンジ、家具は小さなダイニングテーブルとソファチェア2脚だけ。あとは作りつけのクローゼットに入れる衣装ケースが数個。引っ越し業者も申し訳なさそうに、「これがうちの最低料金なので……」と見積書を出すほどだった。

 
 上階の騒音問題に見舞われ、日課の散歩以外では可能なかぎり引きこもっていた私のライフスタイルは変更を余儀なくされ、週に数日ほど外出するようになった。常にうるさいわけではないにしろ、いつ騒音が降ってくるかと気を張りながら部屋で過ごすのは窮屈で、それなら表に出てしまおうと思ったのだ。

 とはいえ、毎日あてどなく出歩くわけにも、喫茶店に居座りつづけるわけにもいかない。そこで、姉の勧めに応じて、彼女の家で日中を過ごすことが増えた。朝は通勤客が途切れたころに電車に乗り、夜は帰宅ラッシュがはじまるころに電車に乗って帰宅する。週に2日ほどの通勤ごっこだ。

 読んだり、書いたり、それに飽きると、床に寝転がって表から聞こえてくる物音に耳をかたむけ、物寂しくなるとAmazonビデオやNetflixで動画を見る。姉宅はテレビもなく、物寂しいときは動画が頼りだ。焦げ茶色の柱をなで、ふと思い立って『東京物語』を見はじめるも、途中で飽きて床に伸び、ぼんやりと天井を見つめる。そうこうしているうちに夕方だ。

 夕方になると、姉宅分と自宅分の夕飯のおかずを作りはじめるが、ここで肝心の調味料が切れているのに気づくことがある。食料品や日用品も買いおかず、切れたらその都度買い足すあたり徹底している。最近では勘がはたらくようになり、ないか切れているとにらんで自宅から小分けにして持っていくと、やはりそうだったということが多くなった。

 在庫切れの心配がないかわり、うちは食料品や日用品の買い置きが無駄に多いのではないか――。姉宅の様子を見て、そう感じることが増えた。生鮮食料品はもとより、調味料も半分以下になると、必ず新しいものを買ってストックしておく。乾麺や粉類、海草などの乾物のストックはダンボール1つ分にもなる。近所にスーパーやコンビニが何軒もあって、なくなったらすぐ買いに行けるとわかっていても、この買い置き癖はなおらない。それでも食材を廃棄することがないのだからいいだろうと思っていたが、買い置きのもので場所を取っているのはちょっと問題だ。

 
 姉と私の、物をもつ・もたない、物を捨てる・捨てないという基本的なスタンスの違いは、それぞれの人生にも大きく影響している。

 彼女は過去をいっさい振り返らず、その都度物事を整理して突き進んでいく。感傷とは無縁で、なんでもスピーディで人生の展開も速い。感傷をはさまないから、躊躇なく物を捨てられる。余分なものも持ちたがらない。
 ひるがえって私は、暇さえあれば過去を振り返り、感傷にひたり、古い切符まで思い出の具象物と考えて捨てるのをためらう。場所や物にいちいち思い入れがあり、その都度立ち止まる。順調に見えるようなときでも、常に停滞感がつきまとう。

 長年所有しつづけたものへの思い入れと、食材や日用品のストックが払底しそうなときの焦燥感を断ち切る。とてつもない解脱が必要そうだ。でも、捨てる。捨てよう。捨て癖をつけよう。まずは、テーブルの上の空いたペットボトルから捨てよう。
 

コメントを残す